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マイ・フェア・ニャンコ

 猫を飼ったことのある人ならほとんどみんな知ってることだと思うんだけど、彼らのご機嫌を損ねないようにぼくら下僕、じゃなかった飼い主は、いつもすっごく気をつけてなきゃならない。
 ご飯のお好みはウルサイし水だって常に新鮮でなくっちゃいけないし、トイレの掃除を忘れでもしようものなら百叩きの刑だ。爪さえ出てなかったらそれは、百叩きのごほうびって言ってもいいのかもしれないんだけど。
 それと、万が一にでも彼らの失敗(例えばジャンプの目測を誤って無様に床に落っこちるところとか)なんかを目撃しようものなら大変だ。こっちはなんにも悪いことしてないってのに、ものすごく理不尽な腹いせをされる。そうだな、お気に入りのウールのセーターの上で爪砥ぎされるとかね。
 年季の入った下僕、じゃなかった猫飼いであるぼくはそんな事は十分に承知してたはずなんだけど、今朝方ついうっかり、うちのおミケ様に向かってこう言ってしまった。
「なあ知ってるかい、飛べない猫はただの猫なんだぜ?」

 それっきりおミケ様は、屋根の上から降りてこない。猫は冗談が嫌いだ。

 おミケ様というのはうちのご主人、もとい飼い猫だ。数年前のある朝、ぼろくずみたいな姿でうちの玄関先に倒れてたのだ。ガリガリにやせ細った体をタオルで包み、その足で駆け込んだ動物病院の診察台の上で、彼女の尻のあたりから米粒のような物体がぽろりと落ちた。猫についてまだほとんど何も知らなかったぼくは何だろうとばかりにそいつをひょいと拾い上げ、そんなぼくに獣医が冷静に、それ寄生虫だよと告げた。
 今ではおミケ様は下町の行き倒れからすっかり美しいレディに、いや、レディすら通り越して豊満なマダムへと華麗な変貌をとげ、ぼくはあの時以来、瓜実条虫を目にする機会を得ずに済んでいる。ありがたいことに。

 ぼくと彼女が暮らす借家はど田舎にある木造平屋建ての一軒家だ。むちゃくちゃ古い代わりに馬鹿みたいに家賃が安い。猫を飼うのは大家公認で、爪だって砥ぎ放題だ。今でもぼくは時折、あの日おミケ様がうちで倒れてたのはそんな事情を全部知った上での計算ずくだったんじゃないかという疑いにかられる。
 そして今、その家の屋根でおミケ様は、もう半日以上も空を見上げてやさぐれていた。まさかほんとうに、空を飛ぶつもりなのか。
 ぼくは裏の物置から脚立を引っ張り出してくると、恐る恐る壁に立てかけた。大きく息を一つ吸い、ぐにゃぐにゃの足を無理やり一段目に乗せる。自慢じゃないけどぼくは高所恐怖症だ。この家だって、二階家だったらたぶん借りてない。猫は高いところから落ちても平気だっていうけど、でもおミケ様の豊か過ぎるお腹が無慈悲な重力に打ち勝てるとは、とてもじゃないけど思えなかった。
 くそ、猫なんか嫌いだ。

 おミケ様は無心に青い空を眺めている。小山のようなその背中が、どこか哀愁をおびているように見えるのは気のせいか。

「……降りてきてくれませんかおミケ様」

 いやだにゃーん。

「もうじき日が暮れますよ。寒いですよ」

 知らないにぇごー。

「……ぼくが悪かったです。空を飛べるなんてたいしたことないです。おミケ様はただの猫じゃなくて世界一のにゃんこです」

 だからどうしたにゅあー。

 脚立が危なっかしく揺れる。

「じ、じゃあ、今晩はご飯の後に、マグロのお刺身をおつけします!」

 悲鳴のようなぼくの叫びに小山が即座に振り向く。くっ、はめられたか。
 次の瞬間おミケ様が音もなく屋根を蹴った。飛んだ!?と一瞬思ったぼくを尻目に、おミケ様はぼくの肩に容赦なく爪を立てて足場にすると、軽やかに脚立を駆け下りた。

 見事だった。

 自分で降りられるんじゃないかぁ、と言うぼくの声は我ながらとても情けなく響き、空しく消えていった。海老みたいなへっぴり腰で、かたつむり並みの速度で脚立を降りてくるぼくを、おミケ様がにやにやしながら見ている。くっそ、猫なんか大っ嫌いだ。
 おミケ様は、ぼくが脚立を片付けて戻ってくるまでそこに座って待っていた。ぴしり、としなやかな尻尾で地面を打つ。苦しゅうない、家の中に連れてってもよいぞよ、というお許しだ。抱き上げると、ふかふかの胸毛が肌をくすぐる。満足げにぼくの腕の中で丸くなるおミケ様はずっしりと重たい。

「……幸せの重みですね、おミケ様」

 ぼくの言葉に、彼女はぅふん、と小さく鼻を鳴らす。

時空モノガタリ 第一回オーナーコンテスト投稿作品
【テーマ: 猫とアオゾラ 】

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