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第十二夜

 こんな夢を見た。
 薄い靄の中を、自転車を押してゆっくりと歩いている。靄は冷たくて湿っていて、微かに赤みがかっていた。肌をかすめるように流れていく靄の向こうではたくさんの人がざわめいている。靄を通して聞こえてくるそれらの声も重く湿り、何を言っているのかはわからなかった。
 進むにつれて周りから聞こえてきていたざわめきは打ち寄せるように大きくなり、いきなりその声に吹き払われるように靄が晴れた。途端に一面のピンクが視界に飛び込んでくる。長く真っ直ぐに伸びる道が目の前に現れ、その両脇には満開の桜の木が数え切れないほど立ち並んでいた。道には花びらが絶え間なしに降り注がれている。靄を染め上げていたのもこの桜だったのだ。
 先ほどから聞こえてきていたざわめきの正体は、道にぎっしりとひしめき合う人々の、しきりに勧誘をする声だった。そういえばもうそんな時期だったのか。自転車で来たことを少し後悔した。
 この季節になると、新入生のサークル勧誘をする学生達で、キャンパスへ向かうこの一本の道は埋め尽くされる。それぞれに趣向を凝らしたそのアピールを見るのは実は楽しみだったが、毎年そのせいでこの道を通るのに苦労するのもまた事実だった。
 苦労しながら自転車を引き、人ごみをすり抜ける。隣で派手に上がった歓声につられてちらと目をやると、どこのサークルだろう、子供達に流行の戦隊ものの衣装に身を包んだ何人かが、格闘の真似事なぞしてみせている。おそらくは手製なのだろうその衣装は、しかしなかなか手の込んだ作りだ。どうやら全部で5色のメンバーのうち、ピンクの団員を募集しているらしい。演劇部か何かだろうか。ついそちらに気を取られていて誰かにぶつかってしまった。薄汚れた白衣を着て、山羊髭を生やした初老の男だった。
 慌てて詫びると男がいきなり、どうしてお主あきらめちゃうのずっと着たかったんじゃろうピンクと言い放った。奇妙な口調で話すおかしな男だったが、内心ぎくりとしたのがそのせいでないことは自分がよくわかっていた。
 口ごもりながらだってピンクは女の子でしょうと言い、そして自分で少し驚いた。こんな言い方をしたらまるで本当に自分がピンクを着たいみたいじゃないか。そう、ピンクを身に纏うのは女の子でなければならない。訳は知らないがそれはもうずっと昔から決められていることなのだ。
 男は人差し指をたててちちちと左右に振り、そんなのやってみなくちゃ判らないじゃろうと言ってニヤリと笑った。早く認めたほうがいい、そう言う男のわきを抜け、自転車を押して道を進んだ。だから桜がいつまでも咲いている、という声を背中で聞いた。
 ざわめきが遠ざかり、桜を散らす風の音が妙に耳についた。そういえばもうずいぶんと歩いてきたはずなのに、道の先にあるのは桜ばかりだった。ざあざあと音を立てて桜の花びらが降ってくる。体に触れると花びらはすぅと肌の中に溶け込んだ。全身が桜色に染まった。

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