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第七夜

 長椅子の下に転がっていった色鉛筆に手を伸ばそうとしたとき、ふいに楽屋の照明が薄暗くなった。耳を澄ますと先ほどまでの客席のざわめきがほとんど聞こえなくなっている。きっともうすぐ芝居が始まるのに違いない。だのに自分はまだ目の前に散らばった荷物を片付けられないでいる。ぼんやりとした明かりの下で、部屋の中は影ばかりが大きくなって見えた。色鉛筆は見当たらない。
 今夜の舞台には気に入りの俳優が出ているのでどうしても始めから終いまで観ておきたかった。それならば古ぼけた絵の具箱だの布の束だの、ちびた色鉛筆だのは放っておいて、とっとと席につけば良さそうなものなのに、自分はさっきからずっとこの大量のつまらない品々を全て拾い集めようと必死になっている。
 楽屋の中はしんとして誰も見当たらない。さっきまで話をしていた化粧係もいなくなっている。昔からの友人の彼女に切符をとってもらった礼にと、菓子の包みを持って楽屋を訪れたのだ。あわよくば俳優を一目でも見られるかもしれないという期待もあったが、あいにく楽屋にいたのは裏方の人間ばかりだった。
 長いドレスだの様々なかつらだのでごったがえした楽屋に足を踏み入れると、化粧係は開口一番にあなたの持ち物を持って帰ってくれと言った。床に散らかっているこの品々は、そうして彼女に渡されたのだ。
 化粧係にそう言われるまで思い出しもしなかったが、確かにそれらは自分の持ち物なのだった。一山もあるその品々を、自分はどうしても持ってゆかねばならなかった。左手に抱えあげた荷物がどうかするとずりおちそうになるのをこらえて、右手でまだ床に残った品を拾い集める。拾った端からどんどんと物が増えていった。左手に次第に力が入らなくなり、丸めた布がずるりとほどけた。
 抱えていくのはあきらめて、芝居が終わった後にまた取りに戻ることにした。まとめた物をとりあえず長椅子の脇にきちんと置いた。舞台の最中に盗られはしないだろうか。心配になって、何度も置いた位置を変えた。
 楽屋を出て狭い通路を小走りに抜け、一度建物の外へ出てから正面へまわった。入り口から真っ赤な絨毯が敷き詰められ、天井には丸いガラスを繋ぎ合わせた照明がきらきら光っている。ロビーはどこもかしこも明るかった。もうすぐ始まるのだからホールへの扉は閉じておいても良さそうなのに、どの入り口も開け放されている。こうこうと照らされているロビーとは違い、ホールの中は真っ暗だった。舞台装置の照明なのか、青いライトが奥で光っているのだけが見える。客はもうすっかり静かにしていた。
 受付に切符を手渡したがなかなか切ってもらえない。隣の女とお喋りなんかしている。いらいらと両手を揉み合わせた。あの長椅子の下に転がった鉛筆が、後で見つかるかということを考えていた。
 係の男たちが扉にゆっくりと手をかけて閉め始めた。青い光が急に強くなった。

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