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第十三夜

 月も星もない闇の中でも波が泡立つのはよく見えた。流れた血も焼けた肉も何もかも飲みこんで、海は今日も変わらない顔をしている。
 奥の部屋ではきっともう酒宴が始まっているのだろう、きちんと閉まらない扉の向こうでちらちらと明かりが揺れ、賑やかな声が漏れ出てきていた。今日襲った船は久しぶりの大きな獲物だったから宴の盛り上がりも格別だ。こんな日に見張りの番だとは運の悪いことだとさんざんからかわれたが、自分はこのちいさな部屋での一人の見張りを好んでいた。
 切り立った岸壁に穿たれた窓から眼下の海を見やる。夜を溶かしこんだ海が、白い波を牙のようにひらめかせていた。根城のあるこの入り江の海流は恐ろしい。傍目には凪いで見える海面は、骸骨の旗を隠して獲物に近づく海賊船のように鋭い牙を隠し持っているのだ。この入り江に近寄る船などおらず、だから見張りといってもほとんどはただただ海を眺めていた。
 そのときいきなり、おとなしかった海面が盛りあがった。
 ああ、跳ねる。訳もわからぬままそう思った瞬間、水がざばりと揺れ、巨大な尾が海面を断ち割って振り上げられた。海鯨だ。もう一箇所でまた灰色の体が波を割って現れた。二頭の海鯨はゆっくりと入り江の中を泳ぎまわっている。深海の生き物は暗い海によく馴染んだ。
 ふと異質なものが眼にとまった。漆黒の中に真っ白なものがぽかりと浮かんでいる。遊覧船だ。あんなものは水平線の端っこにいたって見逃すはずがないのに、その船はいつの間にか入り江の中に入り込んでいた。異変が起きたらすぐに仲間を呼ばなければならない。だが何故かそのことには思い至らなかった。ただその船が邪魔でならなかった。
 ふいに二頭の鯨が船を挟んでその周りをぐるぐると泳ぎだした。みるみるうちに海面に巨大な渦があらわれ、船はその中心に向かって引き込まれようとしている。鯨はますますその速度をあげ、渦は入り江を全て飲み込むかのように膨れ上がった。二頭の海鯨は勢いに乗って渦の中心まで泳ぎよると、尾を一振りしてその中へ潜った。次の瞬間真っ白な遊覧船は船首を高々と差し上げ、音もなく渦の中に吸い込まれていった。
 何故だか涙がぼろぼろと流れた。よろよろと隣の部屋へ行き、人を呼んだ。頭が何人の仲間を従えてやってきたときには既に海面に渦は跡形もなかった。皆無言で海を見つめた。
 海が普段の顔を取り戻してからやっと、夜が明けかけていることに気が付いた。朝日を浴びてみるみるうちにその色を変えていく海面に、ぽかりと何かが浮かんだ。透き通った丸い大きな玉だった。昔手に入れたことのあるガラス玉に似た、赤や青など色とりどりの美しい玉だ。いろいろな草の模様が透かし彫りになっている。玉はあとからあとから浮かんできた。同じ色のものは一つとしてなかった。海面を埋めつくしたガラス玉はきらめきながら波に揺られ、互いにぶつかりあっては次々に割れて消えていった。

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