『二十歳の原点』が問いかけるもの

共同Webマガジン「だいある・だいありー・だいあろ〜ぐ」のトップバッターの記事を書くことになりました昼行燈(ひるあんどん)です。

僕が何者なのかなんて誰も興味ないと思うし、それはこの「だいある・だいありー・だいあろ〜ぐ」の対話の旅の中で明らかになるかもしれないので、割愛します。

ただトップバッターの記事を書く責任として、このWebマガジンがどんな内容なのか説明します。

だいある・だいありー・だいあろ〜ぐは、本や映画をきっかけに対話を紡ぐ対話型ウェブマガジンです。 作品を通してみんなで「私」を探す。そんな「旅」ができる場所を目指しています。
「読む」から「語る」へ。共に思索の旅に出かけてみませんか?

マガジン説明より

作品を通して「私」を探すのに、それが「対話」になり「旅」になる。
なんとも不思議な感じがします。
たぶん説明にあるように、それを「みんなで」やることに意味があると思います。
これを一人でやってしまうとそれは「一人旅行」になってしまうし、「独り言」になってしまうのかもしれません。

なので、このWebマガジンは現在、ぼく以外にも一緒に「対話」という「旅」をしてくれる「仲間」が4人います。

ぼくを含めた5人の「対話」の「旅」を楽しんでいただけると嬉しいです。

さて、ぼくがトップバッターとして「旅」のお供に選んだ作品は、高野 悦子著『二十歳の原点』です。

この本がどんな本かぼくはあえて話しません。
この記事を読んで、興味を持ったら『二十歳の原点』について調べてみてほしいです。また読みたいなと思ったら、ぜひ読んでみてください。

コンテンツが、溢れる時代にぼくらは生きているから、ついコンテンツは自分で掴みにいかなくても勝手にやってくるものだと思ってる気がします。
でも、そんなことはないと思います。

掴みに行こうとしたコンテンツが、自分の世界を広げると思います。
だから、ぜひコンテンツを自分から掴んで、「私」を広げてみてください。

では、ぼくの「私」を探す「旅」を始めたいと思います。
まず、『二十歳の原点』からの引用です。

「 人間は他者を通じてしか自分を知ることができない。悲劇ではないか。  」

—『二十歳の原点(新潮文庫)』高野 悦子著

今まで書いてきた内容はなんだったのでしょうか?
全然、逆のことを言ってる文章を引用している気がしますね。
この引用文をそのまま受け取ると、このWebマガジンがやろうとしていることは、全部「悲劇」になる気がします。

「他者」を「作品」にまで拡張できるなら、それは「他者」を通じてしか「自分」を知ることが出来ないという「悲劇」です。
Webマガジンを運営してくれる仲間と一緒に、「自分」を探す「旅」をするなら、これもまた当然「悲劇」です。
このように、「このWebマガジンそのものが「悲劇」になってしまうのか?」と言いたい気持ちになりますが、そこは高野さんの言葉に戻りましょう。

「 人間は他者を通じてしか自分を知ることができない。悲劇ではないか。  」

同上

「「人間」は「他者」を通じてしか」と書いています。つまりそれしか「自分」を知る術がない言ってます。

「自分」を知る方法は、「他者」を通す方法しかないことが「悲劇」と言ってるわけです。

なるほど、「悲劇」かもしれません。
「他者」からの「眼差し」によって、「自分」というものは容赦なく知れてしまいます。

自分より金持ちのあいつ。
自分よりモテるあいつ。
自分より仕事が出来るあいつ。
こうやって「他者」の存在が「自分」の存在の惨めさを容赦なく照らします。
これを「悲劇」と言わずしてなんと言うか?

はい。
これはではあまりにも幼稚ですね。
高野さんはきっと、「浅くてバカだね。そういう話じゃない」って言う気がします。

この言葉には、高野さんの周りに振り回されない「自分」をどうやったら確立できるか?という問いがあった気がします。
つまり、「他者」を通じて見える「自分」は、否応なく「他者」を気にしてしまう。そのことによって「他者」に都合のいい「自分」にしかなれない。そこに「悲劇」がある。

その「悲劇」から抜けたいけど、不幸なことに「人間」は「他者」を通じてしか「自分」を知ることができないわけです。

果たして、「「他者」を通じてしか「自分」を知りえないこと」は「悲劇」なのでしょうか?
ぼくは少なくとも、そう思ってないです。
「他者」は「自分」を豊かに「眼差し」ます。
その豊かな「眼差し」から見える「自分」は、とても豊かです。

だから、「他者」は「自分」を豊かに「眼差し」その「眼差し」によって知れる「自分」は豊かなのです。
さてここで一旦、ぼくの「旅」は終わりたいと思います。


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