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短編小説『鏡のなかの自分』
ああ、めんどくさいなあ。誰かやってくんないかなあ。
脱衣室の大きな鏡をのぞきこんだ。右側よし。左側よし。上を見た下を見た。だめだ。右手でアゴの下を触った。剃り残し、あんじゃん。他にもいるよとヒゲはあざ笑った。鏡に近づいた。うん?くちびるの周りにも産毛が残ってる。シェーバーはもう洗った。また使ったら、また洗わないといけない。やりたくない。よし、見ないふりをしよう。そう思いつつも、ホットタオルを当ててた時間が短かったのかな。それとも初めて使ったジェルタイプのシェービングフォームが理由かな。シェーバーの刃が原因かも、と考えていた。
脱衣室の大きな鏡をのぞきこんだ。前髪よし。横髪よし。鏡を背にして振り向いた。うわ、後ろ髪の流れがおかしい。ブローしたよな、チェックしながら髪を作ったはず。昨日と同じ量のワックスと時間をかけたのに。どうして昨日の髪形は決まったのに、今日のは変な流れができてんだよ。ちくしょうめ。髪を乾かしすぎたのかな、スプレーの量が足りなかったのかな。もう一回髪を洗って髪を作る。なんて、そんな時間はない。たとえ時間があっても嫌だ。やりたくない。彼女とのデートの約束に遅れたら困る。目をつぶろう。どうか彼女がそれに気がつきませんように。
ヒゲを剃るまえにすることがある。顔を洗う、ローションとかクリームで保湿する。濡れたタオルをジップロックに入れる。レンジで60秒、ぬるかったら30秒。まだぬるかったら30秒。蒸しタオルを顔にのせて手で押さえる。ヒゲと皮膚をあっためる。やっとスタート。ヒゲの生えている頬やアゴの下、口周りにシェービング剤をぬった。シェーバーを肌に直角にあてて毛の流れにそって剃るってどの雑誌にも書いてあるけど、上手く剃れたことがない。順ぞり、逆ぞり、張り手って言葉は知ってる。張り手は本当に苦手だ。皮膚をうまいこと引っ張ることができない。そんな言葉を知っていても、ヒゲをきれいに剃れないと意味がない。ぬるま湯でシェービング剤を洗い流す。顔をあらい、冷水で毛穴をしめる。保湿しておわり。
髪をつくるまえにも、することがある。髪をぬらすこと。髪は8割程度しか乾かさない。乾かしすぎると髪にワックスがうまいことつかない。まず、ワックスを手に薄くのばす。指先でつまみこするようになじませる。髪をこすりながらねじって髪に動きをつける。髪全体のバランスを整えたら完成。マッシュスタイルにしていたときはストレートアイロンを使っていたから、時間と手間がもっとかかったっけ。
これらを毎日。あああ、めんどくさい。女性がメイクに時間がかかることは周知されてるけど、オレら男だって時間がかかるんだ。ちいっとも知られてないけど。
ある日シェーバーを手にしたときに、なにか違和感があった。軽い?確かに、軽いシェーバーを買った。でもちがう。そういう感覚じゃない。ま、いっか。それにしてもひげをそるのはめんどくさいな。別の日には、ワックスのベタベタをあまり感じなかった。ハンドクリームを軽く塗った手で髪を触ってる感じ。また別の日には蒸しタオルをもったときに。そこそこ熱いタオルなのに、熱さをあまり感じなかった。オレってこんなに熱さを感じないひとだっけ?こんなに熱くないタオルでは毛穴が開かない気がする。タオルを入れたジップロックをレンジにほうりこんだ。でもやっぱり熱さを感じなかった。どうしてだろう?
日を追うことに違和感は増えていった。ワックスを少し手に取り、前髪をつかんだ。あれ・・右手でつかんでるよな。ちがうちがう。鏡の中のオレは左手でつかんでいた。あたりまえだ。うん?あれ、ちがう。そうじゃない、間違ってない。顔に当てたホットタオルを右手でとったとき、鏡の向こうのオレは右手にタオルを持っていた。どういうこと?鏡をみつめた。『めんどくさいんでしょ?』誰かが言った。振り向いた。誰もいない。声は鮮明に聞こえた。でも誰もいない。次第に重さ熱さ、物を持っている感覚がなくなっていった。同時に、声が聞こえる回数が増えていった。『髪を作るのってってほんとにめんどくさいよね』蒸しタオルがいつのまにかできていた。『やりたくないんでしょ』ワックスもスプレーの量も減らなくなった。『大丈夫、オレがやるよ』彼は右手を動かした、オレのその手は左手だった。オレは右利きなのに。シェーバーもワックスもスプレーも蒸しタオルもオレの手元からなくなった。それらがあるのは鏡の向こう。ひげをそるのも髪を作るのも彼の仕事。鏡のなかに閉じこめられたオレは、彼と同じ動きを左右反対にしてるだけ。
ひげは伸びっぱなし、髪をとかすことすらしない。髪も切りに行かない、ご飯も作らない、洗濯もしない、掃除もしない、風呂も入らない。「おい、少しぐらいやってくれよ」リビングに向けて大声をあげた。「分かった、分かった。今度な」いつものように彼は着たきりすずめのまま、ベットのなかでスマホをいじっているのだろう。上の空で答えたように聞こえた。こいつのほうがものぐさじゃないか。ヒゲをそるのがめんどくさいだの、髪を作るのがめんどくさいだのなんて思わなきゃよかった。はああ。あいつ、鏡の前に来てくんねえかなあ。すぐに入れ替わるのに。その意図に気がついているのか、彼は脱衣場にちっとも来ない。そりゃそうだ。オレが勘が良い人間なんだから、彼も勘が良くて当然だ。はあああ。
✴️読んでいただいてありがとうございます。家にいるときは、ランジャタイのユーチューブをBGM代わりにしています。漫才のとか生配信のとか。国崎さんは本当にイカれてますね(もちろんほめてます)。どんなにくだらないことでも全力でやるってすばらしい!!これは彼らのユーチューブの『鏡の自分を笑わせろ!』から着想。自分が鏡のなかの自分を動かすのではなく、動かされたら怖いなと。追加した『オチ』がうまいことくっつきました。予定ではホラーのはずだったのに😰