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小説≪⑫・明日は海の日。なっちゃんと出会った日・⑫≫

  ドトールでお茶をしましょ、とももちゃんは提案した。心からの笑顔がでた。やっと緊張せずにいられる。あそこは、ぼくみたいな庶民の行く店じゃないよ。結婚指輪をあそこで買おうと言われたら、断固拒否しよう。
    店に入ると2人は一緒にメニュー表を眺め、あれがいいこれがいいと実に楽しそうに意見を言い合った。それをさんざん見たあげく、ももちゃんの母親はエスプレッソコーヒー。ももちゃんはルイボスティーをオーダーした。
「あおいさんは何にする?」
「あ、う、うん」
   ももちゃんはメニュー表をひっくり返し、ぼくの前に置いた。それにざっと目を通したぼくは、2人の視線が気になり、何でもいいやとエスプレッソを頼んだ。
  2人はぼくなんて視界に入らないかのように、おしゃべりに夢中のように見えた。まあ、ぼくはおしゃべりが得意でないから放っておいてくれた方がいい。
「お手洗いに行ってくるわ」
   しばらくしてももちゃんは立ち上がり、あおいさん、すぐに帰ってくるねと足早に立ち去った。彼女の母親は気をつけてねと声をかけ、ひらひらと手を振った。ももちゃんの母親と2人になるのはそういえば初めてだなと思いながら、彼女が向かった先をぼんやりと見ていた。
「ねえ、あおいさん」
  ももちゃんが席を外してからすぐ、彼女の母親は口を開いた。
「ももちゃんと別れて欲しいの」
「え」
   そんなこと考えても、だから言われるなんて思いもしなかった。
「それがももの幸せだと思うわ」
    幸せ。ぼくがいないことが彼女の幸せ・・。
「どうしてですか」
「失礼だけど、あおいさんの給料でももを食べさせることはできないわ。ももちゃんはあおいさんがいればそれでいいなんて言うけれど、今までお金の心配なく生きてきた子なの。無理に決まってる。そう思わない?」
「・・お金はなんとでもなると思います。彼女も当分は働くと言っていますし」
   なんの自信もないけれど。時には、はったりも必要だ。
「当分でしょ。ももちゃん、お腹が大きくなるまで働くっていってるのよ。産前産後のお休み取って、ギリギリまで休むつもりなの。働いている人も多いから、ももも心配なくやすめるのよ。ももちゃんの会社は福利厚生がしっかりしているけど、あおいさんの会社はどう?」

「ももちゃんが言っていたのだけれど、あおいさんのアパートって一部屋しかないんですってね」
「はい。そうです・・」
「そんなところでどうやって2人で暮らすの?同棲ならまだしも」
   ぼくはむかし、“”そんな“”アパートで2人で暮らしていました、なんてそんなこと言えっこない。お義母さんは同棲してたんですか?と、ぼくが勇敢な人間ならば嫌みたらしく言ったかもしれない。でもぼくにそんな勇気はない。
  「そんな所のどこでももちゃんは寝るの?シーズンオフの服はどこに置いておくの?おふろの後とかリラックスしたいときはどこでするの?1人きりになりたいときは、あおいさんは外にいる?」
   クローゼットに入らない、ぼくのシーズンオフの服は部屋を侵食している。ももちゃんの服を置く場所はどこにもない。キッチンも狭い。そもそもキッチンといえるレベルじゃない。1人でいても狭く感じるときもある部屋に2人で住むなんて、ももちゃんは耐えられないだろう。
「もものためだと思って、ほら、ねっ。傷つくのはももちゃんなのよ。あおいさんは色々経験してるかもしれないけど」
   その言葉にぎくりとした。なっちゃんのことがばれたと思った。だけれどそれは杞憂だったらしい。彼女は話題を広げなかった。
「婚姻届だってまだ出してないんだし」
   分かるでしょう?と彼女は続けた。
「あおいさんから言って欲しいのよ。こっぴどく振った相手に未練を持つひとはいないわ。しばらくは男性不信になるかもしれないけど」
    ぼくから振れということ、ぼくを憎ませて忘れさせろということ。そんな過去があるんですか?そんな意地の悪い質問をしたかった。けれど自制心が働いてしまった。
「もものことは心配しないで。頃合いをみて誰かいい人を連れてくるから。ほら、あおいさんのお友だちのような頼りがいのある人。営業職についているだけあって、おしゃべりも上手だし、話していて楽しいでしょう?」
「・・」
   ぼくがいったい何をしたんだよ。紹介されてももちゃんと出会って、ももちゃんがぼくにひとめぼれして、付き合って、婚約しただけだろう。どうして嫌われないといけないんだよ。うつむき唇をかんだ。
「あおいさん、遅くなってごめんなさい」
   大丈夫という言葉がとっさに出なかった。だ、と口を開いたとき、口のなかに血が広がっていることに気がついた。噛んだ唇から出た血だろう。いつか、そう、風鈴が割れたときも口に血が広がった。けれどあのときと違って、いまはこれを吐き出すことができない。
「だ、だ大丈夫」
   気持ち悪いそれをごくんと飲みこみ、そう答えた。

     一番の犠牲者はももちゃんかもしれない。ぼくと母親に挟まれて悩んでいるのはももちゃんだろう。彼女のに比べればぼくの悩みなんて、彼女のご両親に好かれてないなんてことは大したことじゃない。一緒に暮らす訳じゃないんだから、その顔を見なくていい。嫌みだって聞かなくていい。


    でも


    その日電話をしたのは、いつもよりも少し遅い時間だった。


❇️読んでいただいてありがとうございます。時にははったりも必要と書きましたが、“”時には“”ではなく、毎日のようにはったりをかまして仕事しています。誰かから嫌みを言われないためやパワハラを受けないために、自分を大きく見せるのは必要だと思っているので。そのせいか、みんなから怖がられてる気がするな・・。