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ヨーロッパを鉄道で1周してみた/欧州鉄道周遊記
この頃、いきなり手や足がつる事が増えた。
芍薬甘草湯という薬を飲めばすぐおさまるのだけれど、バイクに乗っている時にいきなり指がつった時は死ぬかと思った。
指が勝手にブレーキを握ろうとするので危険極まりない。
という話は置いといて、学生時代にヨーロッパを鉄道で二か月間旅した事を綴ってみました。
(2022年5月22日初稿
2023年9月29日加筆修正
2025年1月26日加筆修正)
はじまりは唐突に
・口約束のつもりだったのに
大学二回生の夏、浪人時代の友人とヨーロッパを二か月かけて鉄道で一周した。
元々大学合格前から
「大学に入ったら海外に行こうぜ」
と浮かれた話をしており、友人は入学後は野球場のライト磨きという結構レアなアルバイトをして旅費を稼いでいた。
が、私は入学後にできた彼女とグダグダずるずるな環境で授業にも出ず腐っており、旅費が足りず実家に援助してもらうというやる気のなさっぷりであった。
予定は夏休みいっぱい、二か月間なので結構な額である。今思うと親には申し訳ないの一言しかない。
・貧乏旅行の強い味方
二か月も旅行していれば移動だけでも馬鹿にならないと思うかもしれないが、ヨーロッパには加盟国なら新幹線以外の列車だけでなく、一部の船やバス路線も乗り放題になる
「ユーレイルグローバルパス」
という周遊券があり、二か月毎日乗り放題で確か七万円だか八万円だかで購入できる。その制度があったからこその旅行計画であった。
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ちなみに、この乗り放題制度は日本版もあり(ジャパンレールパス)同じく国内乗り放題なのだが残念なことに日本人は対象外である。
この鉄道旅行、日本を出る前からてんやわんやというか一苦労であった。
・約束された貧乏旅行
私は大阪の大学、友人は東京の大学に進学しており、東京発のアエロフロート(当時のロシア国営航空)格安便などという航空界の青春18きっぷ的なエアラインでパリに向かう予定であったため、私はまず東京まで行かねばならなかった。
はじまりから貧乏旅行を約束付けられていた私には新幹線などという贅沢は許されず、18切符で片道11時間もかけて鈍行で東京に向かうのだった。
夜行列車を使うなどの機転も利かなかった私は日中の普通列車を乗り継ぐノープランぶりを発揮し、通勤ラッシュの中バックパックを背負って数時間立ち続けたりなどの無駄な苦労を重ね、東京までたどり着いた時にはくたびれ果てていた。
友人宅で一泊し、朝友人の友人に車で空港まで送って貰うプランまでは立てていたのだが、友人も私に負けじとノープランっぷりを発揮して私の到着を待っていた。
「ヨーロッパに行くんだから俺らも金髪じゃなきゃ恥ずかしいな!」
と謎理論を発揮し脱色剤を私の分まで用意していたにも関わらず、バッグパックと靴だけしか用意しておらず荷造りさえできていない有様。
今の人が使っているかどうかは知らないが、パスポートやトラベラーズチェック<注1>などの貴重品を盗まれない為に身に着ける「巾着袋」の存在すら知らず私がその晩夜なべ仕事で縫い上げたのはまだ可愛い方である。
縫い上げたといっても、構造は小学生が給食着を入れる袋と同じ構造でシンプルといえばいいが適当な代物だ。
ちゃんとしたものは下記のようなものになる。
<注1>トラベラーズチェックとは
現在は廃止されているが、所有者がサインする事で使える旅行者向けの小切手の事
荷造り時に何か考え込んでいるので見てみると
「洗濯用洗剤のビッグボトル2リットル」
をどこに収めるか悩んでいた。
長期の旅行だからとビッグボトルを買ってきたらしい。
「あのなあ、そういうものは500mlのペットボトルに入れられるだけ持って行って無くなったら現地で買えばいいだろ」
と言うといたく感心され、こいつと一緒で大丈夫だろうかと私の胸中は非常に穏やかならぬものになったのであった。
それでも仲良く一晩かけて徹底的にブリーチした私達は渋滞にはまってフライトに遅れかけたりしながらもなんとか日本を立った。
ジェット機が離陸する瞬間というのは思ったよりも力任せの強引なしろもので、初めてジェット機を経験し動転した私は
「こんな事なら〇〇ちゃんを口説いておくべきだった!」
と咄嗟に思った。いや、真剣な話である。
・タイパの悪い旅支度
私たちが旅行に出た時代というのはインターネットで情報収集や旅行の手配ができる前の時代である。
旅行資金はクレジットカードがなければ旅行者用の小切手であるトラベラーズチェックというものを銀行などの窓口まで直接出向いて買い付け、飛行機のチケットも格安旅行代理店まで直接出向いて窓口で端末を叩いて調べてもらって購入していた足を使う時代だった。
旅行の頼みの綱は英語で書かれたヨーロッパ全域の時刻表「トーマス・クック時刻表全欧版」とそれぞれ購入しておいた
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「地球の歩き方」
などのガイドブックが各自一冊のみ。
後は訪れた街々の観光案内センターで貰える観光案内パンフレットだけである。
時刻表なぞ国内のものすら読んだ事のない我々であったが、慣れというものは凄いもので
「ここで〇時の×行の列車に乗ってどこそこで降りて△時間待った後の◇行き列車に乗り換えれば夕方までには宿が確保できるな」
と数十分もかけずにプランが立てられるようになっていた。
人間必要ならば鉄オタとも勝負できるといういい例である。
日本の鉄道のように次の駅のアナウンスなどはしてくれないし自分たちの現在地も時刻表から割り出すしかない。
そんな中、乗り過ごしも行き間違いもなくトラブルなしにやり抜いた私たちは大したものであると言っていい。
もっとも、地図が読めず歩いているうちに目的と違う山に登っていた事はある。
ぶらぶら途中下車
旅のスタイルは非常にシンプルで、基本的には列車で目的地に移動し、宿を見つけてから観光などして過ごし、宿でガイドブックを見ながら翌日の予定を決めてまた次の観光地に向かう繰り返しである。
気に入れば数日間滞在を伸ばして毎晩フラメンコを観に通うなり、南仏で海水浴だけのために数日を費やしたりとお互いの合意が必要とはいえ非常に緩い行き当たりばったりな旅行だった。
ダイヤによって夜行列車や寝台車、場合によっては追加料金を払って新幹線(高速鉄道の事)と色々な列車を利用したが、鉄道マニアの成分は欠片ほどない私でも一番記憶に残っているのは列車の事ばかりだ。
過ごした時間が一番長いのが列車での移動なので当然な話ではある。
夜行列車の窓から見えるどこともしれない遠くの街並みの光や、スペインの強い日差しの下で咲き誇りどこまでも続いているひまわり畑など、窓越しに眺めた光景の方が印象深く残っているものも多い。
なので、この話では観光の話は一切出てこない。
北フランスからスペインをめぐり、イタリアにおりたあとは折り返して北上し、ドイツにハンガリーと東へ向かった後再度フランスに戻るという、ベルリンの壁崩壊後なので東ヨーロッパにも行く事ができた上にほぼ西ヨーロッパを周った気ままといえばいいが計画性の見えない旅行ルートではある。
個人的に気に入ったのはスペインだった。EU発足前で国によって物価は違うのだが、酒もたばこも税制上安い上に食事もおいしいと良い所ずくめであった。おまけにフラメンコが素敵ときたものだ。
なお、フラメンコにすっかり魅入られた私がお土産に買ってきた現地のフラメンコの歌謡テープは酔っぱらったおっさんがいい機嫌で唸る鼻歌のような酷い代物で友人たちに大爆笑されてしまい、結局最後まで聞かぬままであった。
旅のトラブル110番
が、順調に旅を楽しんだとは言い切れない。
何せ四六時中一緒に行動しているのでお互いの音楽性の違いなどが問題になる事は避けられず、特にしゃべっりっぱなしの私に辟易した友人からの提案で、他の所も見たいししばらく別ルートで旅行し再合流しようという事になった。
この友人の提案は今思うと非常に冷静で理性的なものであった。ある友人の話であるが、北海道を自転車で一周する旅の途中に夜のコンビニで怒鳴りあいの大喧嘩をしたという。
まあ、こういうのを放置しておくと成田離婚とかになる訳である。
私はその頃イギリスに短期留学していた大学の女友達と連絡がとれたのでドイツで合流し、留学時にできたという友人を含めてエスコート役をつとめつつ、両手に花の状態でライン川下りやローマの遺跡巡りを楽しんでいた。
が、移動プランや宿の手配は私がやっていたのでツアコン代わりに使われただけと言えなくもないのではないかという疑いに駆られている。
別行動中の友人は夜行列車で荷物をチェーンロックで座席に固定するといういつもの習慣をつい怠ったその夜に荷物を一切合切盗まれてしまい、Tシャツに短パンという恰好で夏でも寒いスイスに放り出されてしまうという目にあっていた。
ホテルにチェックインした時に(パスポートとトラベラーズチェックは私特製の巾着袋のおかげで無事だった)フロントの兄ちゃんに同情されて服を貰い、その後着たきりスズメだったという。
旅の最後
・ひろぽん、人とあう
そんなこんなで色々なトラブルにも遭ったが、それ以上に多くの人と遭った旅であった。
行く先々で人と遭い、話す。
それがなければ単に風光明媚な観光地を回るだけの単なる物見遊山である。
列車で席が隣になった人や、宿が同じだった人、果ては海水浴で同じ岩場(砂浜がないので岩肌を削った階段で海に入る)を使った人とでも話をし、それ自体が旅の楽しみの一つだった。
そんな日々出会いに満ちた毎日が続いていた。
海水浴に行った先で出会った元フランス外人部隊でボスニア・ヘルツェゴヴィナにも行ったという日本人男性。
ハンガリーから帰る夜行列車があまりに寒く震えていたら一緒の毛布に入れてくれたドイツ人の美少女。
パリで睡眠薬強盗に遭って途方に暮れている男性など
「キャラ立ち過ぎやろ」
という人たちと知り合っては色んな話をした。
新しい街につけばそこで又何か新しいものを見て新しい人と出会う。
あれだけ毎日が新鮮で楽しかった経験は大学入学時の日々ぐらいしか思いつかない。
・ひろぽん、友人にあう
旅の最後、再度パリに戻った私が最後に出会ったのは
別行動を取っていた友人であった。
待ち合わせていたのではなく、ポンピドゥーセンターを見に行った帰りに偶然出くわしたのである。
ちなみにポンピドゥーセンターというのは現代建築の一大モニュメントとされているのだが下の写真のような代物で私には何が良いのかさっぱり。
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偶然出くわしたのはいいが、先に述べたように服も含めて一切合切列車で盗まれた友人は親切なフロントの兄ちゃんに貰った服を着ており、最初
「おい!おい!」
と呼び止められても誰だかわからず通り過ぎかける所だった。恰好が違いすぎるのだから当然である。
その後、事の顛末を聞いた私が笑い転げた事は言うまでもない。
別行動を取られても当然である。むしろ一緒に行く方がおかしい。
この旅行ですっかりオープンマインドな行動が身についたのか、夏休み明けの私は
「パリピみたいな金髪になった」とか
「性格変わったねー」
などと言われていたらしい。ちなみに盗まれた友人の荷物は旅行保険で補償された。
何事にも言えるが、保険は掛け捨てでもいいから入っておいた方がいい。
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