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『廃墟の島の小さな恋の物語』



 最終の校了原稿を編集長の机の上に置き、吉祥寺のアパートに帰り着いたのは、十二月二十七日の午前一時を回っていた。泊まり込みが続き、三日ぶりの帰宅だった。
 郵便受けの中に、角二の封筒が配達されていた。諫早の母から送られてきたものだ。
 開けてみると、便箋と古い封筒が二通入っていた。便箋は母からの便りだったが、気がかりは転送されてきた粗末な茶封筒の手紙だった。
 一通目の封筒の表には、〈あて所に尋ねあたりません〉と赤いスタンプが押してあった。宛先の名前を見て、突然胸が締め付けられるような切なさを覚えた。そこには見慣れた文字で〈湯浅なほ様〉と書かれていた。
 慌てて裏返し、送り主の名前を確かめると、やはりそうだ、〈青海憲一〉と自分の名前があった。下手くそな字だが、筆跡は明らかに小さい頃の自分のものだった。

 もしかしたらと、もう一通の封筒を見ると、僕に宛てられた手紙だった。
 封筒を恐る恐るひっくり返した。送り主の欄に〈湯浅なほ〉と書かれていた。しばらく呆然として、その名前を眺めた。何とも言えない懐かしい思いが蘇ってきたが、戸惑いも大きかった。
 〈湯浅なほ〉と僕の間で交換されるはずだった手紙。思い当たることがあった。二通とも小学六年生のときに書かれた手紙だった。
 二十年前に書いた手紙が、いま配達されてきた。
 手紙に封をした、そのときの手触りが不意に蘇った。同時に時間が逆回りしていくような感覚に襲われた。
 あれは小学校六年生の冬、クリスマス・イブの日のことだった。体育館での終業式から戻り、二学期最後のホームルームが始まった。
 教室の時計の針が午前十一時を五分だけ経過していたことを、僕ははっきり思い出した。

「通知表はちゃんと家の人に見せるんだぞ。三学期の始業式の日に、保護者欄にサインと印鑑を忘れずに貰ってくるように。分かりましたか?」
 中古賀先生が教室の中を見渡すと、何人かが不服そうな声を上げた。
「武史、ご両親の真似してサインしても、先生には直ぐ判るからな」
「先生、そんなことせんでもさ、オレ、自慢じゃなかばってん、期待されとらんもんね」
 武史君の開き直った態度に教室が沸いた。
「そうか、体育の評価だけは気になるんじゃないのか。確か家庭訪問の時に、お父さんがそう言われていたぞ」
「先生、そいなら大丈夫。オレ、体育だけは人に負けん自信があるもん」
 また教室に笑い声が拡がった。
「まあ得意、不得意は、誰にでもあるからな。二学期に頑張った証だと思って、見てもらいなさい。いいか?」
 今度は素直な返事が返って来て、先生は満足そうにみんなの顔を見渡した。
「よし、じゃあ、一つ質問をしよう。今日は何の日でしょうか、分かる人?」
 みんなが手を挙げる中に、誰かが「クリスマス・イブ!」と大声で答えた。
「はい、正解です。今日はクリスマス・イブですね。通知表を渡す前に、先生から皆さんに、特別なクリスマスプレゼントをあげようと思います」
 先生が愉しそうにそう話すと、武史君が疑うように口を挟んだ。
「先生、宿題じゃなかろうね?」
「おっ、武史は勘が鋭いな」
 途端にみんなからブーイングが起こったが、先生はそれを楽しむように微笑んだ。
「すまん、すまん、今のは冗談だ。先生からの本当のクリスマスプレゼントだ。それも二十年間楽しめる、とびっきりのプレゼントだぞ。何かわかる人?ちょっと、無理かな」
 今度はさざ波が広がるように、前後左右の人とひそひそ話が始まった。先生の二十年間楽しめると言った言葉に、みんなが機敏に反応した。
「はい、正面を向いてください。これから白紙の用紙と封筒を配ります。一人に一つずつ取って、後ろに回してください」

 先生は枚数を数えて、一番前の席に置いていく。僕たちはやっぱり宿題ではないかと、疑心暗鬼になりながらそれを受け取った。
「行き渡ったかな。はい、それではこれからプレゼントの内容を説明します。うん?宿題じゃないかと、まだ疑っているな。大丈夫、宿題じゃないから」
 先生は黒板に長方形を大きく二つ描くと、右側の図形の真ん中に〈あて先の氏名〉と書き、左側の左下には〈自分の名前〉と書いた。
「はい、これからみんなには、二十年後に届く手紙を書いてもらいます」
 みんなの顔に困惑の表情が浮かんだ。
「ただし、手紙を出す相手は、このクラスの人に限ります。その中には自分も入っていますから、二十年後の自分に宛てた手紙でも構いません。難しく考えないで、気楽にいきましょう。来年の三月には卒業して、皆さんは離れ離れになるのが確実ですから、今の大切な思いを誰かに伝えましょう」
 先生は教室を回りながら、嬉しそうに説明を続けた。

「二十年後の自分や友だちの姿を想像してみてください。何か楽しくありませんか。普段は恥ずかしくて言えなかったことでも、二十年後に届く手紙なら大丈夫です。感謝の気持ちを伝えるとか、本当は謝りたかったけど言えなかったこととか、自分を励ます手紙でもいいと思いますよ。好きな人に二十年後に告白するのも有りだと思います、ロマンチックですね」
「先生!」
「うん?武史、どうした?」
「クリスマスはキリスト教徒の祭りです。オレら仏教徒には、関係なかと思います」
「武史にしては、珍しく理論的だな。じゃあ、家に電話して、武史は仏教徒だからクリスマスプレゼントはいらないと言っていますから、絶対やらないでくださいと言うか?」
「あっ、いや、それは……。はいはい、わかりました、書けばいいんでしょ、書けば」
 二人の遣り取りを聞きながら、みんなはそれぞれ想いを巡らしているようだった。

 僕が肩越しに湯浅さんの方をちらっと覗くと、彼女はじっと僕を見ていた。僕はその瞬間、彼女に手紙を書くことに決めた。
 教室の中はいつになく静かになり、鉛筆を走らせる無数の音だけが響いていた。その音はときに同調して規則正しく、ときにそれぞれの想いが弾けるように変調した。
「無理して長い手紙でなくてもいいぞ。封筒の表も裏も、住所欄には何も書かないでくださいね。先生が二十年後の住所を書きますから。手紙は先生が責任をもって預かって、二十年後のクリスマスに届くように投函します。その頃にはもう結婚している人もいるでしょうし、みなさんは別の街で暮らしていると思いますが、住所や名前が変わったら年賀状でいいので、先生に必ず知らせてくださいね。それでも音信不通になってしまったら、そのときは勘弁してください」
 先生の独り言のような説明が、静かな教室の中に響いていた。僕は彼女に対する気持ちを率直に書いた。
 書き終わって丁寧に糊付けをして封をすると、少し気持ちが軽くなった。自分の分身が入っているように思えて、封をした手紙を何度か撫でた。
 窓の外に目を向けると、校庭の奥にロボットのように見える八階建ての鉄筋アパートが霧雨に煙っていた。

 あれから二十年の歳月が流れたのだと、改めて実感した。
 先生は二十年後のクリスマスプレゼントとして発送すると言っていたから、たぶんクリスマス前に投函されたものだろう。しかし、当然ながら宛先の住所に彼女は居なかった。当然すぎるほど当然だ。先生が書いた彼女の住所は、あの当時のままだった。
 彼女を含めて僕たちが当時住んでいた社員住宅は、今はすべて廃屋となっているはずだ。僕は卒業して諫早に転居した後も先生に年賀状を出したが、彼女と先生との間の音信は、あの直後から途絶えてしまったのだろう。
 さて、これからどうするか、二通の手紙を眺めて、しばらく考えた。
 僕は思い切って彼女からの手紙の封を切った。中には黄色く変色したわら半紙が一枚だけ入っていた。胸が久しぶりに高鳴った。

青海 憲一 様
憲一君と二十年後に会えたら、どんなにステキだろうな。
わたしは、憲一が大好きだよ。
憲一君も、わたしことを好きでいてくれたらいいな。
この手紙を受け取ったとき、もし憲一君がわたしに会いたいと思ってくれたら、わたしをさがし出して、会いにきて。
わたし、待っている。
憲一君が会いに来てくれるのを、きっと待っているから。

                           湯浅 なほ

 まさかこんな手紙だとは、思ってもみなかった。十二歳の少女のストレートな想いが詰まった文面を、僕は微笑ましく眺めた。
 無性に彼女に逢いたくなった。
 手紙に込められている彼女のメッセージは、いたってシンプルだ。
 ―― 彼女の居場所を探し出し、逢いに行く。
 しかし、それが容易でないことははっきりしている。
 僕らが共に過ごした故郷である池島は、今は廃墟同然の街となっている。
 周囲わずか四キロの島に、最盛期には八千人近くが暮らしたが、炭鉱が閉山した年(僕らが小学校を卒業する年だった)には二千五百人に減り、今は百人ほどになっていると聞いた。
 閉山で島を離れた住民は、それこそ日本全国に散っていった。今の島に彼女の消息を知る人が残っているとは到底思えないが、それでも彼女との接点はあの島にしかなかった。
 僕は池島に行ってみようと思った。小学校を卒業して以来、一度も島には帰っていない。小学校の同級生とも、卒業以来全く音信が途絶えていた。難しいだろうが、彼女の消息を尋ねてみようと思った。
 丁度携わっている月刊誌の編集作業を終え、次号の編集会議まで束の間の休息期間でもあった。
 島の凋落した姿をたまに雑誌で見かけることがあったが、その度に胸が痛んだ。現実の島をこの目で確かめてみたい、僕の胸に沸々とそんな衝動が湧いた。

 二日ほど諫早の実家で過ごし、年末の三十日に外海に自動車を走らせた。
 北西の冷たい風が吹き付ける神浦港のフェリー乗り場から、洋上七キロ先に浮かぶ池島を眺めた。どこかマッコウクジラの姿に似ている。
 南側の断崖の丘が鯨の肥大した頭部で、北に行くにしたがって徐々に標高を下げ、尾ひれが港の辺りだ。島を去るときに見た最後の島影も、ちょうどこんな感じだったのを覚えている。
 規則正しいエンジン音を響かせるフェリーの甲板から角力灘を眺めていると、ふと飛び魚の姿が思い出された。
 ここらの海では夏から秋にかけて、飛び魚が水面をすべるように次々に飛翔する。その姿は胸鰭を水平に広げて、さながらジェット戦闘機のように完璧な飛形で、飛行距離はびっくりするほど長い。
 あれは五年生の島外への社会科見学で、フェリーに乗ったときのことだ。船を追い越して行く飛び魚を見て歓んでいる彼女の姿を遠くから盗み見て、僕は彼女の一挙手一投足に心躍らせた。生れて初めての経験だった。彼女は僕の密かな憧れとなった。
 甲板の椅子に腰かけ、僕は彼女の手紙を取り出した。
 手紙を見るのはこれで何度目だろう、本当に短い手紙だ。あのとき、彼女は二十年後にどんな未来を見ていたのだろうか。

 六年生になり、念願かなって僕らは同じクラスになった。
 彼女と直接話せることが、どんなに嬉しかったことか。彼女と話すときは、いつも胸が高鳴った。
 彼女はおさげ髪がよく似合う女の子だった。自分から積極的に話しかけるタイプではなかったが、話すと明るく応じ、誰とでも気さくに話した。
 授業中は控え目ではあったが、指名されると自分の意見をはっきり発表した。女子からも男子からも好かれて、彼女の周りにはいつも人の輪が出来ていた。
 しかし、そんなクラスの空気は夏休みが終わり、二学期が始まると一変した。みんなが彼女と距離を置き始めた。
 理由は判っていた。彼女のお父さんが会社のスパイではないかと疑われ、言い争いになって傷害事件を起こし、逮捕されてしまった。
 閉山交渉が佳境に差し掛かって、島には一触即発の不穏な雰囲気が充満していた。一家の働き手を失い、彼女のお母さんはホステスとして働き始めたが、彼女の家のことが僕たち子どもの間でも盛んに噂にのぼった。
 子どもにとっても閉山は他人事では有り得ず、親たちの空気が伝染したように不安と憤懣が渦巻いていた。たぶん、憤懣を発散させる生贄が求められていたのだと思う。
 最初に誰が彼女を無視する態度を取ったかは分からないが、僕が気づいた時にはすでに、クラスに度し難い雰囲気が漂っていた。
 彼女は次第にクラスで孤立していった。あからさまな苛めや嫌がらせはなかったが、彼女が話し掛けても無視される場面が多くなった。
 一度クラス内にそんな雰囲気が出来上がってしまうと、それに抵抗するのは容易ではない。僕も話しづらくなり、話し掛けられても短い返事を返すのがやっとだった。
 彼女はそんなクラスの豹変ぶりにも、表面上は冷静に対処しているように見えた。無視されると悲しそうな眼をしたが、声を荒げたり怒ったりすることはなかった。
 ただ、そんなときは胸に掌を当てて、何か独り言を呟いていた。彼女が授業中に発言することも無くなり、あんなに快活だったのに、クラスで会話することも殆どなくなった。

 学校の体育館で、一緒に掃除をしていたときのことだ。
 クラスメートたちは、箒やモップでチャンバラ遊びに興じ、誰も居なくなってしまった。
「ぼくたちも掃除を終わりにしようよ」と僕が言うと、彼女は黙って首を振って、そのまま掃除を続けた。
「みんな、さぼっているし、誰も見ていないよ」となおも言うと、「神様が見ていらっしゃるから」とだけ言って、彼女はやっぱり胸の辺りに掌を当てた。
 彼女の襟元から銀色の鎖紐が覗いていた。
 首から下げているのは何かと訊くと、彼女は困惑の表情を浮かべ躊躇したが、諦めたように服の中から取り出して見せてくれた。彼女の体の一部を垣間見るようで、心臓が高鳴った。
 それは十字架のキリスト像だった。
 掌の上の小さなキリスト像は彼女の体温が乗り移り、たった今彼女から生まれ出たもののように感じられて、僕は顔をしかめた。彼女は十字架を服の中に仕舞うと、顔を強張らせて言った。
「ご先祖様も、ひどい弾圧を受けたけど耐え抜いたの。だから、わたしは平気。わたしは独りじゃない、いつも神様が一緒に居てくださるもの。憲一君もわたしと話している所を見られたら、みんなから仲間外れにされるよ」
 いつの間にか彼女の眼に涙が溜まっていた。僕はいたたまれず、その場を逃げるように離れた。

 あれは運動会を三日後に控えたホームルームの時間だった。
 なぜか中古賀先生は居なかった。運動会でのクラス応援が議題だったのに、武史君が二人三脚の組み合わせがおかしいと言い出した。
 彼の二人三脚の相手は彼女だった。練習でも二人の呼吸はちぐはぐで、途中で倒れることが多かった。スポーツ万能の彼は、ほかの組に負けるのを悔しそうにしていた。
「湯浅と肩を組むと酒臭くて、酔ってしまいそうになるとさ」
 彼はそう言って、二人三脚の相手を誰か代わってくれと、神様に祈るポーズで哀願した。クラス中が大爆笑に包まれた。
 僕は彼女を見た。彼女は今まで見たこともない険しい目付きで、彼を睨み付けていた。僕は耐えられなかった。次の瞬間「代わってやるよ」そう言って立ち上がった。
 彼女が驚いて僕を見た。武史君は自分の悪ふざけに僕が乗ったのだと思ったらしく、僕に握手を求め、サンキューを連発してみんなをまた笑わせた。笑っていなかったのは、僕と彼女だけだった。
 掃除が終わり、机の中を見たら、ノートを破った紙が出てきた。ほかの人に見られないようにそっと開いた。
 紙には〈ゴルフコースで待っている〉とだけ書いてあった。名前はなかったが、差出人が彼女であることが僕にはすぐ判った。

 島の西端にある第二立て坑の横に一コースだけの短いゴルフコースがあった。以前は遠足にも使われていたが、そこで自殺があってからは、誰も寄り付かない場所になっていた。
 広場の端にある楠の下で、彼女は待っていた。どこから持って来たのか、長い紐をカバンから取り出した。
「憲一君、わたし、どうしても二人三脚で一番になりたい」
 彼女は真直ぐに僕を見て、そう言った。
 それから二人だけの練習が始まった。
 次の日も放課後に練習をしたが、なかなか息が合わない。特に彼女のぎこちなさが目立った。武史君が苛立つのもわかる気がした。
 土曜日は朝から練習を始めた。翌日はもう運動会だった。何回も繰り返し練習したが上手くいかず、彼女は足の紐を解くと、黙って座り込んでしまった。
「わたし、どうしてこんなに下手くそなんだろう」と彼女がぽつりと弱音を吐いた。
 何かいい方法はないかと僕は焦った。彼女のために何とかしてやりたかった。
 彼女は運動音痴ではなかったし、走るのは女子の中ではむしろ早い方だった。足の結び方に原因があるのかも知れないと思ったとき、ふと気づいた。逆の足ならどうだろうかと思った。
「なほちゃんの利き足はどっち?」
「よく判らない」
「ボールを蹴る足は?」
「それなら、左足だよ」
「やっぱりそうだ。ぼくたち、逆にした方が上手くいきそうな気がする」
 早速試してみると、びっくりするぐらいしっくりいった。走り終わったとき、彼女は満面に笑みを浮かべた。それからは励まし合って、日が暮れるまで練習をした。

 運動会の日がやって来た。
 炭鉱の閉山が十一月末になることがすでに決まっていた。島全体が運動会に異常な盛り上がりをみせていた。
 昼休み、彼女とお母さんが他の家族とは少し離れた校庭の隅で、ひっそりと食事をしているのを見た。彼女のあんなに嬉しそうな顔を見たのは久しぶりだった。
 運動会では、四年生以上はクラス対抗で点数を競った。午後の競技も残すところは二人三脚と最後のクラス対抗リレーのみとなり、僕たち三組は一組に僅差で二位につけていた。
 クラス対抗リレーは、三組が絶対的な強さを誇っていた。問題は二人三脚の結果次第だった。
 僕と彼女のスタート順は最後の組で、武史君たちが直前の組だった。三組と一組のトップ争いは一進一退を繰り返した。
 武史君たちの順番になった時、彼は後ろの僕の方を向いて「お前らは期待できないから、俺らで点数を稼いどかないとな」と言い残し、自信満々でスタート位置に向かった。
 なるほど彼らはスタートから飛び抜けて早く、誰もが一番を疑わなかった。しかし、もう少しでゴールというとき、武史君がバランスを崩し転倒してしまった。
 再び彼らが立ち上がったとき、後続の組はすでにゴールしていた。彼の悔しがり様は半端なかった。一組との点数が開いた。それも、リレーで勝ったとしても取り返せないぐらいの点差となった。
 三組のテントから大きなため息が漏れた。最後の組だった僕たちには誰も期待していなかった。

 僕たちはスタートラインに立った。
「掛け声を揃えていこうね」と僕が言うと、彼女は「練習通りにすれば大丈夫、神様が見ていてくれるもの」と言って、左の掌を胸に当て、右手で僕の手を握った。
 彼女の胸にあるキリスト像の鼓動が、彼女の手を通して僕の掌に伝わるような気がした。
 僕たちは先を急がず、声を掛け合って確実にスピードを上げた。スタート直後こそ後ろの方だったが、次々と前のペアを追い越した。
 初めは静かだった三組のテントから、次第に応援する歓声が聞こえてきた。遂に先頭の一組のペアに並んだときは大騒ぎとなった。
 僕たちは一着でゴールした。みんなが駆け寄ってきて、大喜びした。
 一番喜んだのは武史君だった。ありがとう、ありがとうと、何遍も僕と彼女にお礼を言った。
 クラス対抗リレーは、武史君の頑張りで三組の圧勝だった。僕たちのクラスは、逆転で優勝を飾った。
 この一件があってから、彼女が無視されることはなくなったが、彼女は相変わらず独りでいるときの方が多かった。
 僕らは同じ図書委員だったから、誰も居ない図書室でよく話した。僕が語る取り留めもない夢物語は際限なく広がったが、彼女はいつも微笑みを浮かべて聞いてくれた。
 しかし、彼女は三学期の始業式には来なかった。年末に島を離れ、長崎の小学校に転校したことが先生から告げられた。

 フェリーはスピードを落とし、草深く変容した緑の島に到着した。
 島の港は、かつては石炭船積み機のシップローダーが轟音を響かせ、背後の貯炭場では石炭を移動させるジブローダーやスタッカーが何台も唸りを上げていたが、今は静かにその胴体やレールを錆びつかせている。
 丘斜面の選炭工場群や巨大水槽が活況を呈した昔を忍ばせたが、ボイラー棟は朽ちて崩れかかり、他の建物や機械も錆びて赤茶け、繁茂した葛に半ば侵食され、全てを覆い尽くされる日もそう遠くないように思えた。
 旧発電造水施設の横には、今も坑道入口がぽっかりと黒い口を開けたままだった。
 その入口は、海面下六百五十メートルの地下に鉱区三万五千ヘクタール、総延長九十六キロメートルに及ぶ蟻の巣状の坑道に通じている。そしてその先端は、十キロメートルも先の角力灘の遥か沖合まで伸びている。
 顔を真っ黒くした父たちが肩を怒らせ、坑道からぞくぞく出てきた過日の姿が脳裏をよぎった。

 僕は黙々と島内を歩き、人が消えた無人の街にカメラを向け、過去の記憶をなぞるようにシャッターを押した。
 古くからの住民が暮らした郷地区の戸建て住宅も多くは無人家となり、バーやスナックや遊技場が軒を連ねた歓楽街も、今は廃墟の街と化していた。
 整然と建ち並ぶ六十棟を超える鉄筋アパートは、どれも出入り口を固く閉ざし、周りを木々が取り囲み、ベランダの窓ガラスは割れ、蔦が壁面を覆いつつあった。
 あれほど人が行き交った商店街はすべて閉鎖され、大きなショッピングセンターも更地となり、彼女が暮らした八階建ての近代的なアパート群も、彼女と練習したゴルフコースも、神輿を担いで登った神社も、友だちと遊んだ公園も、すべては草木に埋もれ、やがて自然に還っていくに違いない。

 僕は学校の校庭に立った。
 海から吹き寄せる強い風が掲揚台の国旗を旗めかせ、苛立ったように乾いた音を響かせた。不意に運動会の日の声援が蘇った。
 子どもたちも、大人たちも、島に住む者全員が集まったかのように、校庭は物凄い数の見物人で溢れた。入りきらない人たちは崖上の道から声援を送った。あの日を最後に、この島から歓声は消えた。
 僕は変わり果てた島の風景を瞼に焼きつけた。文明の残骸と化した廃墟の街が、現代文明の行く着く先を暗示しているかのようだ。
 ヒトは果たしてどこに行こうとしているのか、そう自問せずにはいられなかった。

 僕は港に続く坂道を足早に下り始めた。
 最終となるフェリーが、遠くこちらに向かっているのが見えた。
 この島で彼女に繋がる糸を見つけられると期待していた訳ではなかったが、それでも落胆は隠せなかった。
 彼女の痕跡はおろか、僕たちがこの島で生きた時間は跡形もなく霧消してしまったかのようだ。これから彼女をどう探せばいいのか、正直途方に暮れた。
 港に面した炭鉱体験施設の前をフェリー乗り場に急いでいるとき、左のビルの一階店舗から女性が出てきて、路面の掃除を始めた。
 僕はその女性の後ろを通り過ぎ、ふと立ち止まると思い直して後退りし、その女性の傍に立った。
 女性は僕に気づくと、屈めた体を起こし、怪訝そうに僕を見た。
「湯浅さん、だよね?」僕はそう訊いた。
 彼女の顔が一気にほころんだ。
「うそ、憲一君?」
 彼女は口を手で押さえ、眼を一杯に見開き、目元に溢れてきた涙を慌てて指で拭った。
「ごめんなさい、あまりに突然で」
「まさか、こんな所で君に逢えるとは思わなかった。やっぱり神様のお導きかも知れない」
「本当に……。でも、どうしてこの島に?」
「君を探しに来た、君から手紙をもらって」
「私の手紙?」
 僕はバックから彼女の手紙を取り出して見せた。彼女はその封筒を愛おしそうに撫でた。
「思い出した、小学六年生のクリスマス・イブに書いた手紙ね。そうか、逢いに来てくれたんだ、本当に。私、おませだったから、ちょっと恥ずかしいわ」
「でも、そのお蔭で、こうして二十年後に君に巡り逢えた」
 彼女の顔に不思議な笑みがこぼれた。
 そのとき、店の方から足元のおぼつかない幼児が彼女の方に歩み寄ってきた。彼女はその幼児を抱き上げた。
「私の娘、沙羅というの、一歳六か月なのよ。そうだ、主人も呼ぶね」
「そんな、いいよ」
 思いもよらない展開に、僕は動揺した。
「憲一君、びっくりするわよ」
「えっ、僕の知り合い?」
「そうなの。あなた、ちょっと来て!」
 店から出てきたのは、顎髭を生やした逞しい男性だった。直ぐには誰だか判らなかった。
「あなた、この人、誰だか判る?私が書いたこの手紙を持って来てくれたの」
 その男は手紙と僕をまじまじと見た。
「憲一か、懐かしいな」
 僕は相手が誰か、まだ判らなかった。
「俺だよ、武史だよ!」
 彼は満面の笑みを浮かべたが、僕は頭が混乱した。
「武史君?でも、どうして、君が?」
 僕は咄嗟に訊き返した。
「話せば長くなるんだけど、俺がなほを捜して逢いに行ったんだ」
「君が逢いに行った、彼女に?」
「その手紙だよ。俺はあのとき、なほに運動会のことを詫びる手紙を書いた。しかし四年前にふと思ったんだ、手紙はなほに届かないかも知れないと。だから長崎中の教会を尋ね歩いて、やっと見つけたよ。それがきっかけで、こうなっちまったという訳だ」
 彼は照れくさそうに、彼女から子供を抱きとった。
「二か月前にここに移り住んで、軽食喫茶の店を始めたんだ。住民は少ないけど、炭鉱体験ツアーや廃墟の街を目当てに結構な観光客がある。だけどそれだけでは食えないから、宅配の配達から便利屋まで何でもやっているよ。ここは俺たちが生まれ育ったところだからな、何とかしたいんだ、この島が生き残っていけるようにさ」
 彼の言葉を引き継ぐように、今度は彼女が言った。
「それにここに居れば、こうして憲一君と逢えたように、みんなとも会えるかもしれないしね。もしこの島がこのまま最期を迎えるのなら、私たちがその最後を見届けてやろうと話しているの。ここは私たちが生れ育った故郷だもの」
 僕は二人に近いうちにまた訪れることを約束して、島を後にした。

 フェリーの甲板で、彼女に渡しそびれた僕の手紙を細かく破り、海に流した。
 僕は二十年前の手紙に、〈ぼくが君を守る〉と書いた。しかし、神様からその役目を授かったのは、僕ではなかった。
 先生が或いは十年後に届く手紙にしてくれていたらどうだっただろうかと考えてみたが、今さら詮無いことだった。
 フェリーの進む先には、外海の山々が夕日に照らされ、海の上に淡く浮かんでいた。
 僕は胸に手をやった。キリスト像が熱を持って手のひらにその姿をくっきり現し、僅かに胸が痛んだような気がした。
 僕はマタイによる福音書七章七節を無意識に口ずさんでいた。
「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見つかります。門をたたきなさい、そうすれば……開かれます……」(了)



長崎県池島
池島炭鉱跡地
無人の炭鉱従業員アパート群
ロボットを思わせる近未来的な8階建ての鉄筋アパート


下記は、池島を短歌と写真で巡る探訪記です。

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