前衛書試論02──痙攣する複数の〈私〉

古賀弘幸

「前衛書試論01」では、前衛書の表現が、書く行為の主体である〈私〉とどのような関係を結んでいるのかについて考えた。
〈書〉が過去の文字を繰り返すことを表現の基礎としており、過去に大きく制約されたものであることに、前衛書は異議を唱える。〈私〉と過去そのものである文字(社会に了解されている意味・形・音を持った記号)に必ずしも従属しない自律的な線による表現を志向し、また、古典・書道史との関係を更新しようとしたことにあった。書を「文字を書くことを場所として、いのちの躍動が外に躍り出てかたちを結ぶ」ことであると主張する森田子龍の前衛書論も書が実存と直結することを夢見ているように思われる。
そして、文字あるいは線は〈私〉と内的な関係を必ずしも結んでいない記号や書道史よりはるかに重要な契機として、〈私〉の精神的な動機と直結し、〈私〉が十全に表現されうる唯一の媒介であり、実存の函数であると考えられたのである。
本稿では01で触れた前衛書表現の特徴のリストのうち、「表現の媒体を必ずしも文字によらない」「意味に対応した記号表現を棄却あるいは避けようとする」について、前衛美術一般を参照しながら、考えてみたい。

五 痙攣する美
「前衛書の表現が、書く行為の主体である〈私〉とどのような関係を結んでいるのか」と問うた。これは、いわば〈私〉と書作品の距離を測定することである。
前回見たとおり、前衛書はその距離を無化しようとしているかに見える。一方で、前衛美術一般は、その否定的な精神において、作者である〈私〉の地位を減じようとする契機を持っている。しかしそれは単なる匿名性ともまた異なっている。たとえば、ヨーロッパの前衛美術運動のもっとも大きな動きであったシュルレアリスムのリーダーであったアンドレ・ブルトンは「ナジャ」の最後に高名な一節を書きつけている。

美とは痙攣的なものだろう。さもなくば存在しないだろう。

この一節は、シュルレアリスム的な〈美〉とは「痙攣的なもの」であるという美学的な宣言である。シュルレアリスム研究者の鈴木雅雄はこの「痙攣」について、次のように書いている。「真実と現実とのずれ、意識にとって馴致しえないものの意識への侵入を、この研究の中で私たちは、徐々に「痙攣」と呼び換えていこうと思う。痙攣とは定義上、爆発しようとする力とそれを押し止めようとする力の拮抗だとすれば、ここで前者は「私の真実」、後者は「現実」であると考えられる」。つまり「痙攣」とは「押しとどめられた衝迫」である。つまり、シュルレアリスムの美学において〈美〉は、実存にじかに直結するものではなく、それらは常に緊張関係にある。ただしそれが即座に「痙攣的な美」であるわけではない。
鈴木によれば、シュルレアリスムの美学におけるもう一つの重要な局面となっているのは、シュルレアリスムの「複数性」である。これについて鈴木は、「シュルレアリストが常に複数であろうとしたのは、書き手からテクストへ、テクストから読み手へという健全で白々しい回路が乱調をきたす空間を作り出すことで、テクストがその外部と取り結ぶ特異な関係を誘発するためだったのではないか」と述べている。
つまり、鈴木に従えば、シュルレアリスムにとっての〈美〉とは、彼方から唯一の崇高なものがやってくるといったものではなく、または実存がロマンティックにあるいは批判的に告白される、といったものでもなく、テキストやイメージ、そして〈私〉が不可避の何かによって侵犯され、常に断片に引き攣れ、揺れ動き、単一の状態ではなく、分裂し、吃るようにして、〈私〉と受け手を巻き込みながらしかし離れていくような、〈複数的な〉状態であることであったとも言い換えることができる。それは表現されたテキスト、形や線がそのようであるというだけでなく、その言葉を書き、形や線を描く〈私〉が揺れ動き複数化していく、ということに繋がるだろう。
本稿では前衛書をこの「痙攣的な美」「複数性」などの言葉を手がかりに、考えてみたい。ここでも問題になるのは、やはり〈私〉が、書く主体である〈私〉をどのように考えるかである。
書の線は、前衛書の線は〈私〉に属しているのだろうか?

六 未来派の実験
前衛書を〈私〉の位相と表現の関係に注目しつつ考えるために、約百年前にシュルレアリスムにやや先行するかたちで起こった、ダダと並んでヨーロッパの前衛美術運動の源泉となった「イタリア未来派」を参照することにしよう。
イタリア未来派は、一九〇九年にフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(一八七六~一九四四)がフランスの新聞「フィガロ」に「未来派宣言」を発表したことに始まっている。
当初未来派は詩的実験を核としていたが、文学講演、政治演説、演劇やパフォーマンスなどが上演される「未来派の夕べ」をイタリア各地で開催しながら、次第に美術、音楽、建築、演劇などの分野に広がりを見せ、世界各国の美術運動に大きな影響を与えたが(「未来派宣言」は発表された年に森鷗外が抄訳しており、前回見たように日本の大正時代の芸術界にも影響を与えていた)、第二次世界大戦期にはほとんど衰退した。未来派の特徴として、具体的な作品ばかりではなく、新聞上にひんぱんに「宣言」を発表したことが挙げられるが、未来派の特質をよく現すそれらの宣言を局面ごとに見ていこう。

†過去の芸術的因習との訣別・否定・闘争──
「勇気、大胆、反乱がわれわれの詩の本質的な要素となるだろう」「文学は今日まで沈思黙考、恍惚感、眠りを賞揚してきた。われわれは攻撃的な運動、熱をおびた不眠、かけ足、宙返り、びんた、げんこつを賞揚したい」「闘争の中にしか、もはや美はない。攻撃的な性格をもたない作品に傑作はありえない」「……もしわれわれが不可能な神秘の扉を突き破ろうとするなら、なぜ後ろをふりかえるのか? 時間と空間はきのう死んだ」(マリネッティ「未来派宣言」)

こうした過去の否定・切断はなにも未来派に限ったことではない。ニーチェの影響を強く感じさせる「時間と空間はきのう死んだ」といった表現も前衛を標榜する芸術運動の常套句でもあるだろう。ただ、特徴的なのは、未来派が攻撃や闘争を好み、ひいては「美」の外部に出ようとするかのような過激さが、戦争と政治への接近することにつながっていったことである(未来派は一九一〇年代にムッソリーニによるファシズムに接近した)。宣言にはこんな一節もある。──「われわれは世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義、無政府主義の破壊的な行動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視に栄光を与えたい」(「未来派宣言」)
そして未来派のもう一つの重要な特質は次のような点にある。

†電気・自動車に代表される機械文明と「速度」への賛美──
「世界の偉大さは、ある新しい美によって豊かになったとわれわれは断言しよう。それは速度の美である。……散弾のうえを走っているように、うなりをあげる自動車は、《サモトラケのニケ》より美しい」「われわれは荒々しい電気の月によって煌々と照らし出された造船所や兵器工場の、震えるような夜の熱をうたうだろう」(「未来派宣言」)

二〇世紀に社会一般に普及し始めた電気や映画、自動車といったテクノロジーが、人間精神に大きな影響を与えたことはいうまでもない。未来派はこうしたテクノロジーとそれが生み出す「速度」をほめたたえ、それが新しいポエジーの核心になると考えていた。このような機械やテクノロジー礼賛は、(ロマン主義や象徴主義的な)人間精神とそれへの固執を古臭いものと断罪し、あらゆる価値の源泉であったはずの〈私〉を侮蔑し、〈私〉のフィルターによって矮小化されない〈世界〉にそのまま触れようとする態度でもあるであると言えるだろう。機械の美学は未来派の大きな特徴であるが、前衛書の美学を考えようとする本稿で問題となるのは、機械そのものよりも、それが導く〈私〉への態度の変化である。未来派は技術によって古臭い〈私〉を主体から追い出そうとしていたのである。

†即興性と共感覚的な総合性への関心──
「舞台装置の具体的な表現における絶対的な総合、つまり各要素の絵画的な総合、舞台装置の建築物を構成する諸要素の総合およびそれらが新たな感覚を産みだすことができない場合におけるその排除」(エンリコ・プランポリーニ「未来派舞台美術宣言」)
「われわれは未来主義演劇──総合的である、即ちきわめて短い──を創造する。数分で、わずかな言葉、そしてわずかなしぐさの中に無数の状況、感性、思想、感情、事実、象徴を圧縮することである」

ここで言われる「感覚の総合」を「共感覚」と言い換えてもいいだろう。共感覚とは、たとえば色彩から音を聞いたり、匂いを感じたりする感覚の状態を指している。未来派にとっては〈私〉を取り囲む混沌とした現実と、聴覚と嗅覚と視覚がさまざまに同時的に混じりあう感覚との「衝突」が問題であった。ただしその衝突はじっくりと時間をかけた思弁的なものとして経験されるのではない。その経験は身体を梃子にした即興的で瞬間的な反応でなければならなかった。マリネッティは一九二一年のある宣言の中でそうした感覚を総合するものとしての「触覚主義(タッティリズモ)」について「人間の感覚は気まぐれであり、いつの日か、他の多くの感覚が発見され、分類されるだろう。触覚主義はこの発見を助けることだろう」と語っている。

†言葉と文字の破壊──
「文章の彫琢や微妙なあやを軽視し、自分の視覚、聴覚、嗅覚がとらえた印象を、そのほとばしる流れのままに、息をきらしながら性急に諸君の神経にぶつけてくるだろう。蒸気─感動の激流が文章のパイプ、句読点のバルブ、形容詞のボルトを吹き飛ばすだろう。通常の秩序からはずれた、ひとつかみの本質的なことば。話し手の唯一の心配は、彼の自我の振動をすべて伝えること」(「無線想像力と自由な状態のことば未来派宣言」一九一三)
そして従来的な文学的環境を侮蔑する態度は、擬声語を重視する。
「擬声語は、現実の荒々しいままの要素によって叙情性を活気づけるはたらきがあるが、詩のなかでは(アリストファネスからパスコリにいたるまで)、程度の差はあれ、おそるおそる使われてきた。われわれ未来派は擬声語の大胆かつ継続的な使用を始める」(「無線想像力と自由な状態のことば未来派宣言」)

擬声語はオノマトペとも呼ばれ、たとえば犬の鳴き声を「わんわん」と表現したり、ものが揺れる音を「ガタガタ」「ぎしぎし」と表現する方法である(「すやすや」「のたりのたり」などの音を伴わないようすを表現することは擬態語と呼ばれる)。未来派は、観念的で固定した言語の意味と文法を捨て、リアルで具体的な「生」の現実に擬声語によって近づこうとした()。
未来派はこうした言語を「自由語」と呼び、次のような、無意味なオノマトペで書かれた詩を公衆で朗読するパフォーマンスを行っている。

無=全体 ジャコモ・バッラ
プルクー ズブムー フルトゥスマカ
ズニャックニャックニャック クツクツクツ
ステケステケステケステケ
……

こうして、詩は意味を伝達する媒体ではなくなり、空間に散らばっていく、音と文字による一種の謎めいたオブジェのようになる。ここにも深遠な文学的感興から身を離すように、〈私〉の動機は軽視されている。
一方、前衛書が志向しているのも、言ってみれば線によるオブジェといっていいものだろう。それは意味を代表する文字であることをやめ、線が交錯し、空間に投げ出された物体に変身しようとする。筆者は擬声語は前衛書にとっても興味深いヒントになるのではないかと考えるが、そもそも宮沢賢治や草野心平の詩を題材にしたいくつかの試みを別にすると、擬声語を積極的に使った現代書をあまり見ないようである。
寡聞にしてこれまでの前衛書をめぐる論考の中で、未来派の美学に触れたものを知らないし、正直なところ、未来派と前衛書の直接的な関係も、未来派から影響を受けた大正新興美術運動から前衛書が触発されたこともおそらく実証できないだろう。
しかし、過去の芸術に対する未来派による異議申し立てのさまざまなあり方は、未来派が決して前衛書とは無縁でない──特に言語に対する態度において──と考えることのできる余地を残している。

七 「雑音」への愛
そして未来派はさらにもう一つ、独特の契機を持っている。それは音楽ないしは雑音についての思想である。

†雑音への愛──
「この純粋な楽音という窮屈な輪を破壊して「楽音─雑音」の無限の可能性を獲得する必要がある」
「われわれの日常生活のあらゆる行為には、雑音をともなっている。このため雑音は、われわれの耳になじんでいて、われわれをただちに日常生活それ自体に引き戻す力を持っている」「雑音は、日常生活の不規則な混乱から発して、われわれのもとへ混乱し不規則なかたちでやってくる。雑音はけっしてその姿をわれわれの前に完全にあらわすことはなく、われわれのために数えきれないほどの多くの驚きを蓄えている。それゆえあらゆる雑音を選択し配列し制御することによって、われわれは斬新で予想もしないよろこびで人々を豊かにすることができるということを、われわれは確信する」(ルイジ・ルッソロ「雑音芸術未来派宣言」一九一三)

つまりここで雑音は、単に音楽ではない混乱した音なのではなく、生に即物的な力を吹き込み、覚醒させてくれるような「現実的な」ものとして捉え直されている。
未来派の一員であったルイジ・ルッソロは一九一三年に「イントナルモーリ」というさまざまなノイズを発生させる「楽器」を発明し、演奏会も行っている。一部録音が残っているが、それは、「都市の目覚め」といった題名が示すように、工事現場の音、自動車のクラクション、人々のざわめきといった都市に充満するさまざまな雑音(こうした音が先ほど触れたテクノロジーと深い関係があるのはいうまでもない)を模倣し、作品化したものであった。ここで詳述することはできないが、この雑音音楽というアイディアは、二〇世紀以降の現代音楽にも大きな影響を与えている。
書の批評に現代音楽の話題が持ちだされることに違和感を感じる向きもあるだろう。しかし筆者の考えでは、書と音楽の美学にはいくつかの類縁性を考えることができ、書の美学を考える上で、音楽の美学を考えることは意味のないことではない。
第一に、仮に伝統書であっても、書には書く主体の身体的な動きが分節とリズムと強弱を伴いながら定着された、身体のドキュメンタリーとしてのタブローであるという側面があり、それは「記録された身ぶり」なのである。このタブローを観者は相同的に(書く主体の経験を追体験するように)筆線を追いながら経験する。
この「書の身ぶり」について、ロラン・バルトは、(前衛書作品を連想させる)サイ・トゥオンブリのデッサンについて「書の本質は形でもない。用途でもない。ただ単に、動作(ジエスト)でしかない」と述べている。またティム・インゴルドも「(中国の書の大家が)表現しようと努めたものは、事物のかたちや輪郭ではなかった。彼らの目的は世界のリズムや運動を彼らの身ぶりのうちに再生することであった」と書いている。
動作の痕跡である書を媒介にして書者と観者がともに経験するのが、分節とリズムと強弱を伴う「時間」という経験であり、それがいわば音楽の経験と類似的なのである。このような意味で、前衛書は、その「身ぶり」だけが書から取り出されたものであるといえるかもしれない。
第二に、仮に書表現を記号伝達のモデルとして考えた時、書がメッセージを伝達するだけの〈透明な記号〉ではないことは明らかだろう。もともと書は社会的に黙契され、整序された文字言語には回収されない、時として意味的な対応を無視するような、墨色、にじみ、変形された字形など、豊かな剰余=ノイズを含んだ記号なのだ。そのノイズは、意味的な作用を書からいわば追い出してしまうことすらある。
そしてさらに、特に前衛書は、01で触れた前衛書表現のリストにもあるように、時として文字の持つ通常の意味作用を否定しようとする契機を持っている。仮に文字をモティーフにしていても、線の戯れるタブローは、意味作用を振り落とし、書が書の「外部」に出ようとして、文字言語的ではない言語──たとえば音楽──に近づく瞬間があるだろうということである。
このようにして、高低や音色・強弱が整えられた楽音による音楽と、無秩序な具体音を含む雑音という対比は、意味作用を保ちそれに依存する伝統的な書と、それを捨てようとする前衛書という対比としても考えることができる。「音楽は雑音と沈黙の間に、それが啓示する社会的コードの空間のなかに位置する」(ジャック・アタリ)のであれば、前衛書は、社会的コードから身をそらそうとする、惑乱するノイズなのだ。

八 振動する複数の筆線
イタリア未来派の表現の特徴である過去との訣別、共感覚性、雑音性などの局面を手がかりに、前衛書の表現と交錯するいくつかの点について考えてきた。
前述の前衛書表現のリストのうち、「「造形」を標榜し文字の(意味とは離れた)形の自律的な表現を追求すると同時に、線そのものにも自律的な表現を見出し、「線芸術」を主張する」──このことを前衛書の表現に即してもう少し考えてみよう。
たとえば、上田桑鳩は「獅子吼」「恐怖(幽)」のような作品を複数書いている。それらの紙面の中で線は輻輳し、文字をモティーフにしているかどうかも見定めがたい。
小川瓦木も線がねじれ、錯綜するような「放痕」などの作品を書いている。このような表現は、現在の奎星展などでもときおり見ることのできる表現の一つの類型ともなっているようだ。おそらく刷毛ないしは連筆が使われていることも多いのだろう。
なぜ前衛書は振動し、よじれた複数の線が錯綜するように書かれるのだろうか。その振動するような筆画からはあたかもそこで「音」が鳴っているかのような迫真性が感じられるが、そこからはさきほど未来派の雑音音楽が立てるノイズとの親近性が存在するようである。
そして、よじれ、振動するこうした複数の筆線は、やはり表現の主体としての〈私〉が〈私〉をどのように考えるかに関わっている。つまり、この筆線は先ほど触れた「線を自己の精神の函数とみなすこと」を基盤に持ちながら、その一方で、シュルレアリスムや未来派の表現のように、表現の主体としての〈私〉を単純に信じることができなくなったことを同時に表現している。──つまり、線は〈私〉を表現し託することができる唯一の媒介であるが、それはもはや単一で安定したものではなく、線は線自身への疑いを帯び、常に痙攣し、振動し、複数の矛盾した感情を含んだ分裂するようなものとしてもある──この〈痙攣する複数の私〉が前衛書の錯綜する線のあり方に違いない。それは時として〈書〉であることもやめてしまって、その形式の崩壊、あるいは死に近づいていく形式ならぬ形式としてあるはずである。

九 飛白書
この〈振動する複数の線〉の源泉として参照されたとも考えられる、過去の書表現を見てみよう。それは「飛白書(ひはくしょ)」である。
藤原有仁の歴史的な考察によると、飛白書は漢代に書かれ始め、題字などに使われる装飾的な書体であったが、六朝時代には一種の遊戯として流行し、いわゆる雑体書の一種としても数えられる。唐代になって皇帝の好むところとなり、皇帝が儀礼的に書く題字などのための書体となった。文字が何かに向かって合図を送っているような、宙に飛び立つような姿態からか、道教的な仙界への飛翔の欲望とも結びつき、則天武后による「昇仙太子碑」の題字などは鳥の絵がまじえられている。空海の「七祖像賛」の飛白書は、入唐した空海が長安でこうした文字文化に触れたことの証左であるとも考えられる。
雑体書と呼ばれるものの中には、自然現象を戯画的に文字のなかに取り戻そうとするものも見られる。そのひとつとして数えられる飛白書の線は、布が舞うように、あるいははばたくように震えているのが特徴である。おそらく古代的な宗教世界への志向、あるいは遊戯的な側面をあわせもった特殊な、つまりは書の「外部」(音や振動など、書が触れえないと考えられる要素)を志向する書体であったと考えられる。
そして興味深いのは、飛白書と前衛書の結びつきを証明するかのように、比田井南谷が空海の飛白書を臨書していることである。
それはおそらく過去の技法を再発見しようとする実験上の遍歴であっただけでなく、南谷の一九五〇年代の錯綜した線を特徴とする前衛書作品をあわせ見る時、飛白書はそのエスキースとして書かれたと思われる。つまり飛白書の震える線は、その宗教性や装飾性だけではなく、南谷によって二〇世紀の〈痙攣する複数の私〉の表現として捉え直されたとも考えられるだろう。
◎初出「奎星会報」37号(奎星会発行 2017.6)

(図版、上から上田桑鳩「恐怖(幽)」1957、小川瓦木「放痕」1956、空海「七祖像賛」教王護国寺)

04_桑鳩

05_瓦木

06_空海

◎参考文献
ジャック・アタリ『ノイズ』(金塚貞文訳、一九八五、みすず書房)
ティム・インゴルド『ラインズ』(工藤晋訳、二〇一四、左右社)
田之倉稔『イタリアのアヴァン・ギャルド』(一九八一、白水社)
『1909-1944 未来派』(一九九二、東京新聞)
鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(二〇〇七、平凡社)
ブルトン『ナジャ』(岸田國士訳、一九七六、白水社)
四方章夫『前衛詩詩論』(一九九九、思潮社)
ロラン・バルト『美術論集』(沢崎浩平訳、一九八六、みすず書房)
天野一夫監修『復刻版 書の美』別冊(二〇一三、国書刊行会)
藤原有仁「飛白の沿革」(『書論』第五号、一九七四、書論研究会)


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