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残像論断章(十)──改行と残像
❖近代の文芸作品のさまざまな表現の特質の一つとして、「レトリックとしての改行」がある。これは当然ながら、詩文の「余白」がどのように生じるかにも関わっている。
欧米の近代詩や中国古典文芸で詩行のこうした形式がどのように考えられているのか、もしくは書作品と版本ではどのような差があるのかなどについてはわからないが、書誌学的な観察だけでは事はすまないような気がする。
日本では和歌や書簡などにおいて平安古筆に代表される改行形式「散らし書き」があるが、一定の行長で改行するわけでもなく、句単位で改行するわけでもない。そこにはレトリックというよりは詩行を一幅の絵として観ずるスノビズムが働いているように思える。
❖近世以前の古典文学では、和歌が上句・下句で改行されることは少なかった。物語などで歌として別に改行されることもない場合も多く、「和歌は別行にあらず定行にこれを書く」ものであった(藤原定家「土佐日記」写本奥書)。
明治15年に刊行された外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎『新体詩抄』の凡例では「詩歌皆句ト節トヲ分ケテ書キタル」としながら、七五調の句が空白で区切られているものの、句ごとには改行されず、一行二句という形式でレイアウトされている。
揖斐高「改行論」によれば、これは近世末の長歌にも影響を受けた新体詩が「伝統的な(改行しない)表記形式を完全には捨て去ることができなかったのではあるまいか」という。この後、明治20年代には新体詩は、句ごとに改行することが一般的に行われるようになり、中村梅花『新体梅花詩集』(明治24年)のように、行頭の位置を細かくさまざまにずらして改行することも行われるようになる。
この細かい改行方法は、明治8年に橘守部が長歌の復権を企てて、万葉以来の長歌を分析した『長歌撰格』の表記方法に影響されたのではないかと、揖斐は推測している。この詩の調子や表現構造を「分析的に読む」守部の態度が『新体梅花詩集』のように「分析的に書く」──呼吸や間、詩に流れる時間、そして視線の転換などを視覚的にもコントロールする──ことを促したということだろう。
❖揖斐は、自らも新体詩を多く書いた正岡子規が、俳句の「切れ」を参照しながら、変化に乏しくなりがちな新体詩が〈詩〉であるために、詩に変化や転換をもたらす「曲折」を導入することを主張していることも指摘している(「新体詩押韻の事」、明治30年)。
この「曲折」の一つの方法が「改行」であり、これが近代詩~現代詩における「レトリックとしての改行」につながっていく。いうまでもなく、この「曲折」は残像の場所である。
さらにこうした方法を推し進めていくと、詩はカリグラムやコンクリート・ポエムに近づいていくだろう。
❖そして、この「分析的に書く」態度は、連綿が切断され、均質な単位に揃えられた明朝体活字という媒体によっても促されたのではないか。連綿が切断されたことで、活版印刷には文字列にあらかじめ「改行」の契機が備わったのである。
反歌
対岸に舞ひ来る鶴に手を振れば歯痛の如く春は来にけり