![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/160145613/rectangle_large_type_2_907c77b9944be18b43101b83a96014d5.jpeg?width=1200)
残像論断章(四)──〈書〉の残像 二
❖残像を感じさせるのは、平安の仮名古筆ばかりではない。室町時代から江戸時代に多く書かれた禅僧による墨蹟は、時として一字あるいは数字を大書するものが多いが、「不立文字」を思想として掲げていながら書かれるその書は、覚醒を促す短く垂直的な言葉が、余白の中で孤立するように書かれることで、残像が増幅され──残像はまばたきのように中断によって増幅される──、堂宇の中で弟子を大音声で叱り飛ばすように、また文字の意味を越えようとするかのように余白の中で響く。
そこには漢字が表意文字であることで、シンボルとして機能しやすいという特質を持っていること、また視線の滞留時間が長いということによって、大きくしかも短い字句が残像的に広がり、余情が強調される。
❖戦後の「前衛書」の代表的な人物であり、墨人会を主宰した森田子龍は、禅哲学を美学的な拠り所としていた。その作品は、やはり禅僧の墨蹟のイメージに近いものだが、作品「死」は、一語きりの言葉の残像を利用しながら、まるでそれを凝結させようとしているかのようだ。その凝結した残像は、「文字という場にいのちが躍り出る」ことを書であると考えていた森田にとって、(この作品では特に逆説的に)自らの実存の表明でもあった。
❖中国・唐代初期(七世紀)には皇帝の愛好ぶりも手伝って宮廷を中心に書が重視され、王羲之書法が珍重された。特に楷書表現は洗練され、書道史上の名品と言われる作品が多く書かれた。その中の一つが、褚遂良の「雁塔聖教序」である。
この作品は構築的な楷書に行書的な連続感や優美さを加えられたと評価される。たとえば、この書の複数の左右の払いや横画の静かなうねりに注意すると、次第にそのストロークが残像として見るものの眼に残り、その印象が次の文字のストロークへの注意を促し、身体性を介した複数の残像が混じりあい、全体としての印象に影響を与えるように感じられる。
このように、〈書〉の表現において、残像は線の切断(まばたき)、文字の孤立、空白、共通の要素の響きあいなどを契機として生まれる。つまり、今書いて(読んで・見て)いる〈点─線─点画─文字─言葉〉からの連続した刺激が、次の〈点─線─点画─文字─言葉〉を書か(読ま・見)せるのであり、前の文字とその残像が漂う余白からの「働きかけられ」が次の文字への「働きかけ」を作る。
〈書〉は、先行する〈文字=書〉の残像の「上に」「の中に」「とともに」書かれる、反復される残像の束が絡みあう中で行われる重ね書きpalimpsesteなのだ。その連続が内的で一貫した筆勢と連綿を作る。こうした意味でも書く側にとっても見る(読む)側にとっても、書は「残像的」なのである。
❖それだけではなく、書く意識には先行する文字の残像も働いているはずである。数分前に書いた反故あるいは紙背の文字、あるいは千年も前の先人による古典作品の残像も揺曳している。これから書こうとする余白にも、見えないながら「前の文字」が潜在的にぼんやりと漂っているだろう。
というより、この残像なしには書を書き進めることなどできないのではないだろうか。
文字=言葉の残像は空白によって生まれ、減衰し始めるが、仮に断片的で不明瞭なものであっても、次の行為を促す契機を含んでいる。残像は、気配・余韻・雰囲気のようにあいまいな促し=予兆を伴っている。
反歌 メモ書きの余白に来たる野分かな
![](https://assets.st-note.com/img/1730437218-8BUJSc7I0Fx9bqkyW4eHCOwt.jpg?width=1200)