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残像論断章(八)──戸田ツトム、擦過傷と残像

❖2020年の夏に亡くなったグラフィックデザイナー戸田ツトムの「後期」のデザインは、大きな余白とシンプルなタイポグラフィ―を特徴とする「ミニマル」なものだった。
ノイズに満ちた「初期」デザインとはまったく異質な戸田の「ミニマリズム」の余白は、空白の意匠ではなく、微細な(もしくは大きく目盛りを下げられた)不可視の起伏と凹凸が棲みつき、「白」という逆説的で最大の「ノイズ」が鳴り続ける「場所」である。
おそらく、戸田の「ミニマリズム」の余白は、空白の意匠ではなく、微細な(もしくは大きく目盛りを下げられた)不可視の起伏と凹凸が棲みつき、「白」という逆説的で最大の「ノイズ」が鳴り続ける「場所」である。


デザインというのは、自分のノイズを探索し、平面上に可視化させることだろう(『デザインの種』)
紙を、水面のような〈見えない地(=背景)〉と捉えてみる。それが微細に振動しながら、平面性を放つ白い物体であることを意識化するのです……その注目が「面」に擦過傷を呼び込みます(『陰影論』「半階調を知る」)

❖「擦過傷」は、戸田のデザイン論で頻出する言葉である。『陰影論』でも一章が割かれている。その章の冒頭近くでは、「黒板にチョークで文字を書くことが好きでした」、「飛行機雲は空を引っ掻くような擦過感を感じさせる」と続き、さらに「一つの生成は次の不安定を生み、そしてさらに運動が連鎖し、その痕跡を、擦過傷として現れたカタチが知らせるのです。場はすでに均一な面ではなくなり、陰影や滲みさらにはざわめき、さまざまなカタチの発生を予告し始めます……言うならばその質感は、手と指先に擦過感を感じながら、紙に筆先を走らせる際に感じられる接触感であったりします。すなわちデザインのはじまりといえそうです」とも語られる。

そのような擦過傷=微細なノイズが到来するのは、たとえば雲、水面、黒板、皮膚といった、意識と「環境」の界面である。そのような傷を排除し、記号に整序し、階層(=重力)を与えて改めてスクリーン、あるいは紙に「平衡状態」に均されたものとして投げ返す、という行為がグラフィックデザインとひとまず言えるだろう。

❖ところがその傷は、黒板に残った過去のチョークの跡であったり、使い回された羊皮紙パランプセストに残る過去の文字のしみなどと同じように、〈内部〉に深く沈み込みながら、時に不意に形を変えて戻ってくるものとしてもある。そしてさらに主に読書行為を通じて、擦過傷は、読者と書物の間に新しくつけ続けられる。
たとえば、「擦過傷」の章の後半に登場するヨーゼフ・ボイスについて、戸田は、「経済という〈平衡状態〉が、道具による変形、さらには擦過傷を受け入れることによって、新たな代謝(循環=経済)を開始する」と描いている。
ボイスもしばしば黒板にダイアグラムを描き、パフォーマンスで使っている。「無題」(FIUドクメンタ、一九七七~七九)は何かが記された黒板が雑巾で消され、薄くその痕跡が残っているというだけの作品である。

この循環=経済=運動、擦過傷を浮上させようとするのが、戸田デザインの紙とスクリーンの欲望なのだ。「擦過感覚が意識下で常に待機しているのを感じます。それは完成せず、むしろ拡散する不安な状景となって、表現されることがある……自分のデザインに時おり感じることです」(「擦過傷」)とも戸田は語っている。

❖その擦過傷の感覚の滞留と減衰、そして再浮上のありようは、網膜を舞台にした残像のようなものである。通常、残像は主に神経心理学の視覚的な現象として語られる。

それは最初に与えられた視覚情報が中断された後に消えていこうとするが、減衰しながらも残り、次の生成(書き込み)を予告する。
そのような意味でノイズ=傷は常に未完である。戸田デザインが持つ「フィニッシュしていない」印象について、赤崎正一は「完結性に閉じることを忌避しているとしばしば見える」と指摘している(『ビジュアルデザイン1.』)。

戸田はまた水墨画にことよせてこの減衰について語っている。「水墨画が見ようとするのは、事物が立ち現れる正の時間ではなく、消失に向かう負の時間軸が描く薄暮の地ということにあるのではないか……」(「山水の時間」『陰影論』)──この減衰しつつある風景は一瞬一瞬のうちに残像へと変貌していきながら、ついには溶暗してしまうのだが、その過程で同時にかすかな予感あるいは徴候を帯び始める。というより、予感あるいは徴候はそのような場所(ハーフトーンの場所)にこそ生じる。『デザインの種』にも引かれる中井久夫は、この時間の持つ「幅」について、予感と徴候の差異について語っている。

徴候とは「在の非現前」、予感とは「非在の現前」ということができるかもしれない。徴候とは、必ず何かについての徴候である。……これに対して予感というものは、何かをはっきりと徴候することはありえない。(『徴候・記憶・外傷』)

そして、同時に経験を通じて、「「予感」が「余韻」に変容する」(同)。減衰しつつある事後的な「余韻」は、未知の「予感」にも、主題をもち始める「徴候」にも変容し始める。残像はこの間を揺れている。

反歌三句
石花の虚ろに響く潮の香や
冬至る硯に残る古代文字
蠟梅の影唐本に落ちにけり


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