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人生の主体性の在り方と真実の愛を探す旅 〜バチェロレッテ シーズン1を視聴して

遅ればせながら、バチェラー男女逆転版「バチェロレッテ シーズン1」を観破しました。

リアリティショーで他人の恋愛をみるのはこっぱずかしく観るのをいつもながら躊躇してしまっていたら、ラストを向かえて炎上しておりまして。

なんとか炎上の様を見ないように、結末を知ることのないように、それらの記事を避けながら、見始めたわけですが観るや否やにどハマりしまして、過去のバチェラー3作同様、数日で一気に観切ってしまいました。

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これまでのバチェラーが「恋愛リアリティショー」だとしたら、今回のバチェロレッテは「人生リアリティショー」でありました。

男らしさ。女らしさ。逞しい女性、女々しい男性。男性性、女性性とかそういった矮小な枠組みではない、人間「福田萌子」の人間としての在り方を追求する旅を見せつけられたような感覚でした。

過去のバチェラー3作は、結婚相手を探すというテーマで過ごす2ヶ月間の間で「恋愛」をしていたわけです。いわば「恋愛結婚相手を探す」ということに1人の男性と多くの女性が取り組んでいました。

一方、今回のバチェロレッテは、「福田萌子」は人生のパートナーとしての結婚相手を探していた。男性・女性に求められる過去の価値観のしがらみではなく、人間が人間と真剣にぶつかる。人間が人間として生きるその生き様を、恋愛というシチュエーションを通じて、探していく物語のように見えました。

家族を紹介するまで残った3人の男性は、その福田萌子の「人生の探究」に呼応して、それぞれがそれぞれにおいて2ヶ月の旅を通じて自分自身の人生と向き合っていたように思えます。

最後の振り返りで福田萌子の選んだ結末に文句を垂れていた、序盤で脱落していったその他大勢の男性たちは、福田萌子のそれに呼応ができていなかった。福田萌子の探し求めた「真実の愛」とは異質な「恋愛」をしにきていたんじゃないかと思うわけです。

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自我というものは、一元的自我と多元的自我という捉え方があります。

「人間は1人の人間であるからこそ、1つの自我である」という考え方が一元的自我。「人間には複数の人格が内在し(分人)、それの統合が自我である」という考え方が多元的自我。


スライド20

参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsyap/29/2/29_91/_pdf


本来、人間は多元的自我を持つ生き物ですが、昭和においては人間は一次元的自我であると勘違いする風潮が蔓延していました

戦後のモノがない時代には、皆が「豊かな生活」を追い求め、その結果三種の神器といわれるものを持つ1つのライフスタイルを皆が目指し、懸命に働いていました。

昭和中期の「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」、昭和後期の「カラーテレビ・クーラー・自動車」、平成の「デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビ」です。

つまり共通幻想が存在しており、皆の価値観が一様である一次元的自我の風潮が根強くあったのです。

一次元的自我からすれば、他人との付き合いは表層的か親密かの二択にしかありませんから、真実の愛とは違いを深く知ることに過ぎなかったわけです。

一方、人間は一次元的自我では本来ありません。一人のときの自分、家族といる自分、仕事をしている自分、友人といる自分、趣味に勤しむ自分...。すべての人格は異なり、すべての自分が内在しているはずです。つまり人間は多様な価値観を内包し、その総体として存在しているのです。

真実の愛とは、その家族としての自分同士の呼応と共に、互いの人生を、互いの価値観を認め合い、また同時に高め合う存在との間に生まれる関係性なのかもしれません。

福田萌子が求める「真実の愛」をドラマで眺めながら、ふとそんなことを考えていました。

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誰かが正解で、誰かが間違いという話ではありません。もちろん「真実の愛」の形に正解はありません。人の数だけ真実の愛の形はあって然るべきです。

1人の女性と17人の男性が、真剣に向き合ったからこそ紡がれた物語であり、訪れた結末であり、我々の心を揺さぶるドラマになったわけです。

「人間」としての真実の愛を追求する物語

ボクには、これが令和の新しい女性像だ、なんて結びは軽薄すぎるように感じます。

本来あるべき人間と人間の在り方を、平成までの間に軽視されてきた人間らしさを、ボクはこの物語を通じて考えさせられました。

まだ視聴をされてない方は、ぜひご覧なることをオススメします。


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