起業家と言える日まで。
今も昔も、多くの小学生にとって給食とは楽しい時間なんだと思う。しかし、自分にとってそれは未だに思い出したくもない地獄の日々だった。そんな大昔のことから現時点までの自分のことを話してみようかと思う。なんで起業したのか。なんで大崎下島でやっているのか。どんな思いでやっているのか。
給食地獄
きっと、早生まれの人は共感してくれるかもしれない。よくある話だとは思うし、今でこそ、こういうことはないのだろうけど昔は本当にひどかった。一般的というよくわからない他人の基準にあわせて、自分の成長が判断されるのだから。
自分は2月生まれで、しかも体が小さく病弱でもあった。整列すると常に一番前。同級生と比べて体が小さく食べる量が違うのに、給食を残すことは許されない。完食しなければ休み時間を使ってまで食べさせられる。そこでも食べきれなければ清掃の時間にまで及ぶ。
なんとか飲み物で流し込む。だけど食べられない。屈辱的で惨めで、当時は給食の時間が本当に嫌いだった。いや、食事そのものが嫌いになっていたかもしれない。それだけではない。体育の時間でも同級生にはまったく勝てないから運動も全然楽しくない。そんなんだから、いじめられることもよくあった。
こうなると学校や家族からの期待にまったく応えれない自分自身に対して「ダメな人間だ」と感じるのは必然で、心が通じ合う友人もずっとおらず、どこにも居場所がなかった。帰宅して一人でテレビばかり見ていた。当時はわからなかったが、なんだか世の中から切り離されていて、寂しく、孤独だったと思う。
孤独とは、社会からの期待を満たすような行動をとれなかったときに生じるものだ。孤独は複雑で、悲しみや怒り、恐怖、嫌悪などが入り混じっている。そんな自分を唯一救ってくれたのが「THE BLUE HEARTS」だ。出会いは、たしか小学校5年生の頃だったと思う。
とにかくパンクというものが衝撃的で、自分の複雑な感情を全部吹き飛ばしてくれた。8㎝シングルCDの「情熱の薔薇」を、ポータブルCDプレーヤーで何度も何度も聞いていたことは今でもしっかりと憶えている。このブルーハーツとの出会いが、その後に自分をパンクロックDJにさせたんだと振り返って思う。小学生の心すら潤わせるブルーハーツは本当にすごい。
見つけた自分の居場所
高校3年生という青春ど真ん中の時期にDJというものに触れてしまったのだから仕方ない。勉強はそっちのけで学校が終わってからは、日々のアルバイトに勤しむ。理由はターンテーブルを買うためで、もちろん「Technics SL-1200MK3」だ。当時はダンスクラシックにハマっていた。教えてくれる人はいない。
バイトでお金を貯めては、片道4時間以上もかけて渋谷のマンハッタンレコードやシスコに通った。長野と上野を結ぶ特急あさまは本当に長くて退屈だったけど、Earth, Wind & FireやThe Emotionsとか見つけると興奮して帰ってきた。ちなみに、Cheryl Lynnの「Got To Be Real」は最強の一枚だった。
二十歳を過ぎてもDJの活動は続けた。もちろん、大学なんかにはいかない(いけない)。レコードを買っては針を落として曲と曲をつなげていく。ただただ、それだけがおもしろかった。日本独特の文化だけど、当時はロックやパンクをかけるDJのスタイルがあって、LIVEとセットでよくイベントをやっていた。特に「LONDON NITE」には人がたくさん集まった。
ロックやパンクに限らず、ヒップホップやハウスなど色んな音楽に携わった。ジャンルが変われば、集まる人たちの雰囲気もガラッと変わる。DJだけじゃなくて、チケットのもぎりもフライヤーの配布も、イベント当日のタイムキーパーもゲストの送迎も何でもやった。
人生設計なんて考えたこともない。ちょっと悪いけどカッコいい先輩たちがいて、とにかくその人たちを追いかけていた。その兄貴たちのおかげでたくさんのアーティストと関わらせてもらったことは本当に宝だ。ボブ・マーリィの実娘でもある「ステフ・ポケッツ」ともイベントを共にさせてもらった。
パンクバンドの「B-DASH」もたくさんの出会いの一つで、昨年に永眠したGONGONさんのことは本当に悲しかった。何度もLIVEを共にさせてもらったし、善光寺でお戒壇巡りをしたり、蕎麦を食べたり。リハのとき、LIVEハウスの一番後ろから双眼鏡でステージを眺めていた彼の姿はとても印象的で美しかった。
20代も半ば以降になると、音楽が好きというだけで続けていくには苦しくなってしまった。当然、DJだけで飯が食えてわけではないので、色々と仕事をやりながら続けてきたんだけど、自分には音楽の才能がまるでなかったから、先が見えなくなってしまっていた。だからというか、次第に家業に専念するようになっていった。
世界同時不況の真っ最中に飛び出す
介護業界に転身したのは父親の在宅介護とリーマンショックがきっかけだった。実家は父親の代から金属加工業をしており、自分も工作機械で日々切削加工をしていた。DJとはかけ離れて、鉄を削るという地味な作業。それも0.01㎜とかの世界で精度を出すのだけど、それはそれでおもしろい部分もあった。
2008年のリーマンショックあたりから、徐々に父が抱えていた糖尿病が進行してきた。当然、食事療法を行うのだが、そもそも生活習慣が悪かったから糖尿病になったわけで、思い通りにならない食事に我慢ができず、ストレスを抱えていくようになった。
そのストレスは家族にも向き、次第に父は孤独になっていく。これが当時の考えだったわけだが、しかしながら今になって感じることは、この順番は逆だったのかもしれないということ。そもそも孤独だったからこそ生活習慣が悪くなり、病気になっていった。おそらく、こういうことなんだろう。
一方、リーマンショックの影響は酷く、当時、出勤しても仕事がまったくないという状況が続いた。世間は不況のど真ん中。あれほど仕事があることへのありがたみを痛感した日々はない。このままでは家族が共倒れになるという危機感から、自分は何か起業の種を見つけて独立しようという気持ちになった。それが介護だった。
幸いなことに兄妹が会社にいたため、自分が抜けても問題ない状況だった。とはいえ、介護に関する知識も人脈も何もないところから、いきなり起業できるわけがないので、まずは福祉用具専門相談員という仕事に就いた。この仕事は、知識や人脈を培っていくのに本当にピッタリだった。
転職したことで給料も半分以下になってしまって大変だったが、いずれ起業しようという夢があったので何の迷いもなかった。勤めながらも会社に許可をもらって、個人事業主としてフリーペーパーの制作や発行など介護系メディアへのチャレンジも始めた。もちろん、何の知識も経験もない。
投資を通じて生まれる友情がある
すでに活動拠点は長野から東京に移り数年が経っていた。その頃、個人事業として介護情報誌のディレクションや介護系WEBメディアの運営を生業としていた。特にWEBメディアではテクノロジーの介護活用について調べ、取材し、記事として取り上げていた。
そして、日本でビットコインへの投機が盛り上がってきた2016年暮れ。ビットコインの基幹技術であるブロックチェーンについて調べていると、一つの記事が目に止まった。それはエストニアにあるFunderbeamというスタートアップがブロックチェーン技術で画期的なマーケットシステムを生み出したという話。
簡単に言うと、非上場のスタートアップの株式を誰でも取引できるプラットフォームを開発し、個人でもスタートアップの株式にアクセスできるようにした。一方、スタートアップ側からすると、VC(ベンチャーキャピタル)に限らず、グローバルで資金調達ができるチャンスとなる。
このサービスで個人投資家として実際にエストニアのスタートアップに投資をしてみたところ、投資先のスタートアップのボードメンバーやスタッフの顔が見えて、どこか野球チームやサッカーチームを応援しているような熱い気持ちになってくる。それが単純におもしろくて、儲けられるかどうかなんて二の次三の次。
どの起業家も、まずは世の中の問題の解決が最優先であり、お金儲けを一番に掲げている起業家なんて存在しない。いたとしても、そんなのはすぐに消えるのだろう。Funderbeamとは特別な縁があったと思う。Facebookを通じて、彼らのサービスに感動したことを素直にCEOのKaidi Ruusalepp氏に伝えたところ、すぐに彼らとの交流が始まった。
そして、日本から熱狂的にサービスを利用している自分に興味を持ってくれたのか、クロアチアのクラフトビール会社へ少額の投資をした際に、なんとFunderbeamチームの好意でその会社へ訪問するツアーを組んでくれた。しかも、クロアチアの起業家や投資家を集めてピッチイベントまで開催してくれたのだ。
上場している企業に投資したところで、その企業の経営者や従業員の顔を知ることなんて稀で、仲良くなることはほぼない。もちろん企業を応援するという気持ちで上場株に投資することもあるが、それよりもキャピタルゲインやインカムゲインが目的であることの方が大多数で一般的だと思う。
これは上場株が間違っているという話ではなく、投資におもしろさを求めるなら間違いなくスタートアップ投資だと言いたいだけ。国をまたいで顔の見える関係がつくれて、投資を通じて世の中の問題の解決に協力ができる。こんな最高なことがあるだろうか。
ツアーでの体験は生涯忘れることはないと思う。それほど強烈で、優しく、おもしろい思い出を残してくれた彼らには感謝しかない。このスタートアップ企業と株主が強い絆で結ばれた体験こそが、今回の資金調達方法としてFUNDINNOを選んだ理由につながる。自分にはこの原体験がある。
「何もないからいいんだよ」と言っても誰にも伝わらない
出会った多くの人たちから、「なぜ大崎下島で始めたのか?」という自分への質問をよくいただく。最初は誰にも信じてもらえなかったが、大崎下島が本気で戦える(&闘える)場所であり、且つ、成功が実現しやすい可能性を感じたから来た。本当にそう思った。
理由は次の三つ。まず、柑橘類の栽培が主要産業であり、それゆえに住民の皆さんの足腰が非常に丈夫であったこと。驚いたことに、70歳の方に歩く速度で負けたことがある。東京で生活していてそれなりに歩くスピードが早かったはずなのに抜かされてしまった。これは本当に衝撃的だった。認知症と歩行速度の関係は研究で示されているのはご存知の通りだ。
次に、高齢化が進んでコミュニティが希薄化されていたとはいえ、まだそのコミュニティがしっかりと残っていたこと。農床(家庭菜園)という文化があり、どの家にもそのスペースが必ずあり、野菜で物々交換をして暮らしている。交換する際に野菜がかぶらないように作物を変えていたりもする。
産業革命以降の都市化が進展するにつれ、地域コミュニティは希薄化・崩壊し、その結果、社会的な孤立と孤独が蔓延してきた。問題はその孤独が病気のリスクを高めることにある。だから、このコミュニティの土台があることは自分たちの事業を進めていく上で非常に重要だった。
最後は、世界を舞台としたときに独自性や優位性がつくりやすいということ。住民の誰に何を聞いても、「こんなところ、何もない」と言う。たしかに、コンビニやドラッグストアなどそういった類のものは何もない。だけど、便利じゃなかったからこそ健康的に暮らしている高齢者がいるという事実があった。
何もないのではなくて、あることに目を向けられてなかっただけ。そして、何もないからこそ、ブランディングがしやすいという大きなメリットがある。大崎下島での活動を独自のものとして世間に認識してもらうことは非常にやり易く、たとえば、同じことを広島市や東京でやったとして、同じ評価を得ることはできなかったと思う。
なぜなら、他の多くの情報に紛れてしまい、目立つことができないからだ。ベンチャーが認知度を上げることは非常に重要なことで、ポジションを意図的に自分でつくることをしなくてはならない。実はこれは体が小さく弱かった自分が特にスポーツで勝とうとするときの勝ちパターン。物理的な距離や時間軸を長く取ることで弱くても勝てる可能性が出てくる。
自立した暮らしを失う恐怖
これを読んでいる人の多くは自立した生活を送っていることだと思う。日々仕事をして、買い物に出かけたり洗濯をしたり。時間が空けば、読書をしたり、映画を観に出かけたりして、人生を豊かなものにしていく。しかし、それはいつまでも続かない。なぜなら、いずれは誰もが高齢者になるからだ。
定年退職や免許返納などでできることや役割を失い、体力や健康面の問題などで行動範囲も狭くなってくる。そして、友人やパートナーの死で社会との接点や交流が少なくなってしまう。年を重ね、頼れる人が近くにいないと自己肯定感が低くなり消極的になっていく。
大切な自立した暮らしを失う恐怖とは。ひとりで死に向き合う恐怖とは。それらがいかほどのものか自分にはまだわからない。ただ、孤独感はわかる。どうにもならない孤独な時期を過ごしてきた自分にはその気持ちが少しわかる。周りの世界は見えているのに、自分はその一部じゃないという感覚。
社会からの期待を満たせないときに抱くものが孤独。何度も言うけど、その孤独が病気のリスクを高めることが示されている。高齢化社会の課題は生死に関わる病気や障害を抱えながら長年にわたって生活する人が多くなることにある。だから、医療費や介護費の膨張が止まらない。
これまでの活動から、「良好な人間関係が予防医療の浸透につながる」ということがよくよくとわかってきた。テクノロジーだけでは予防医療は進まない。だから、「人とテクノロジーの力で高齢者の孤独と健康不安を解決する」という課題設定をして、STARTWELLの開発を進めてきた。
STARTWELLはこれからの時代に必ず求められる。なぜなら、高齢化率70%もある日本の未来の姿である大崎下島でそれをつくってきたし、実際にサービスを継続してくれているユーザーの方々がいるからだ。長い人で3年以上も利用してくれている。これは疑いようのない明らかな事実。
ノブコさんの涙
人間は孤独を避けようとする。人間は生物学的に、人と一緒にいることが普通で当たり前だと感じている。これは、人と一緒にいないことが異常事態であるということ。しかも、内向的な人でも、ほとんどの時間、他者のことを考えて過ごしていると言われている。孤立状態になるとドーパミンが増加し、「仲間を探せ」と促してくるのだそうだ。
ほとんどの人が予防に関する行動について、「自分はまだ必要ない」と言う。医療が安い国で暮らす日本人は特にこの傾向が強い。実際には、独りになってから必要と感じても、ほぼ手遅れであることが多い。丈夫な足腰も頼れる隣人も元気なときから準備していないと手に入らない。
「孤独は疫病である」と言ったのは、アメリカ保健福祉省のビベック・マーシー医務総監(公衆衛生局長官)だ。2019年に大崎下島に初めて訪れた際は、まち全体がひっそりとしていて、なんだか終わりを迎えようとしているように感じられた。あれから5年以上が経った。
先日、いつもコミュニティランチに参加しているノブコさんに、住民代表として中国からの視察団との交流をお願いした。視察団の一人がノブコさんに、「ナースアンドクラフトが来る前と今では何が変わりましたか?」という質問をした。ノブコさんは話を始めるやいなや、涙を流しながらその質問に答えた。「いつも本当に楽しくさせてもらっている」。
もしかしたら、不安と孤独の毎日だったのかもしれない。
最後に
自分の人生の最期が、再び孤独になるとしたら、きっと耐えきれない。絶対にあの頃には戻りたくない。だから、自分のためにも自分の子供のためにも、社会の問題をそのままにしておくことはできないし、人類が長寿命化した結果が悲しいものであっていいはずがない。
自分は、今の自分より大きな何かに挑戦するということをいつもやってきた。それがパンクなことであると考えてきたし、成長できることが何よりも好きだからだ。自分は、人生の最後に「100年生きたら、おもしろかった」と言って死んでいきたい。楽しかったではなく、おもしろかったと言いたい。おもしろいには知的好奇心が溢れているように感じられるからだ。
人生は自分で舵を取ることが大事で、舵を手放さない限り、自ら未来を切り開くことができる。それが「豊かに暮らす」ということだと信じている。そして、どんな困難なときでも豊かでいられる人が起業家なんだと思う。だから、起業家という生き方が大好きだ。
ちなみに、最近になってようやく「自分は起業家です」と言えるようになった。それは、スタッフや関係者、住民の皆さんとでつくってきた5年間の努力が国際的な評価へとつながったからだ。成果が出て、進んでいる道に間違いがないことがわかった。それが自分にとって本当に大きな自信となった。
今までもこれからも自分が重要視するのは「世の中の問題の解決」だ。その次が顧客への価値提供で、その結果でお金を稼ぐこと。綺麗事ではなく定石として、お金儲けを中心として考えない。なぜなら、そんなの意味がないし、カッコ悪い。お金儲けが悪いのではなく、お金儲けを最優先で考えるダサい人間にはなりたくないということ。
今、小さな投資家としてクロアチアで夢のような体験をした自分が、今度は逆の立場となってFUNDINNOで仲間を募ろうとしている。素晴らしい体験をしたからこそ、願わくば、ナースアンドクラフトが好きな人たち或いは活動に共感してくれる人たちに投資家として集まってほしい。
同じ未来を想像してくれる人たちと一緒におもしろい未来をつくりたい。明日が楽しみになる社会は自分たちの手でつくれるはずだから。
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