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【流儀】ポジションを取ることは、もう一方のポジションを捨てること。それを“選ばない”という選択をすることを忘れてはならない

日常にある小さな無視

日々の仕事のコミュニケーションにおいて、LINEやメッセンジャー、Slackなどのチャットツールを使うことが一般的になってきました。グループを作って情報共有や意見交換などを行うこともあると思いますが、その際、返答を求めているにも関わらず、メンバーの反応がなく虚しさを感じたことはないでしょうか?

いわゆる既読スルーというもので、プライベートシーンであれば各々の感じ方や使い方次第であり、この場で提起する話ではありませんが、これがビジネスシーンであれば事情が異なります。

そもそも仕事の関係者や職場での集まりとは、一つの目的を共有し、それを達成するために集まった人々であって、目的達成のためにはそれぞれが持つ知識やスキル、時間などを提供しなければなりません。なぜなら、それが給与や報酬をもらって行う“仕事”というものだからです。

仕事であれば主張や意見をはっきりさせ、自分のポジションを明確にしなければなりません。YESかNOかを曖昧にせず、自分の意見を持って仕事に臨みます。しかしながら、仕事であるにも関わらず、なぜかアクションを起こさず無視(スルー)をしているケースが散見されます。

恥ずかしながら、私たちの会社においても既読スルーが頻出していた時期がありますが、このような背景には、どっちでもいいと他人事として捉えている「当事者意識の無さ」があるように思えます。諸外国と比べて日本には、政治や社会問題に対して無関心な人が多いですが、このようなこととも関係があるのかもしれません。

求められているのは“正解”ではない

また、既読スルーのような無視とは異なりますが、せっかくグループを作成したにも関わらず、わざわざ個人宛に意見を送ってくる人が時々います。公の場で誰かに自分の意見を否定されたら嫌なのか、それとも自信がないのか。どのような理由にしろ、皆の前で意見を言わないことにはその人のポジションは不明確です。

角を立てないように水面下で調整しようとするのは日本人の多くに見られる特性かもしれませんが、それでは議論は起こらず、物事が昇華することはありません。しかも個人宛に送られても、さらに調整するための意味のない作業が増えるだけで、送られた側はただただ面倒くさいだけです。

本人は周りに配慮しているつもりかもしれませんが、自分の意見を表明していないことには変わりありません。自分の考えを公に知らせるからこそ、そこに意味があり、人と意見が違うからこそ、そこに価値があるのです。

このように、周りの人の目をいちいち気にしたり、あらかじめ意見を合わせようとしてしまう背景には、授業中に先生に当てられた際に正解を言わないといけないと考える義務教育の影響があると思っています。学校の授業の多くの場面では正解を求められ、私の時代では議論するケースは稀というかほとんどなかったと思います。

絵文字は感情を効果的に伝える素晴らしい発明

誰もが無視されることが嫌なはずなのに、他人に対しては無神経にそれを行ってしまう。誰もが自分の意見を持っているはずなのに、いい人でいようとしてしまうあまり水面下で調整してしまう。このような問題に対して、私は社内でのチャット使用時に一つだけルールを設けました。それは、「必ずリアクションをする」ことです。

意見を言うのではなく絵文字を押せばいいだけです。メッセージに対して確認したのかどうか。それがYESなのかNOなのか。もちろん、きちんと意見を言えることが理想的ですが、これだけでもどのような気持ちであるかは十分に汲み取れ、その人のポジションもわかります。

さらに、これがルールとしてあると絵文字を押すという自らの行動によって次の行動が促されるのです。意見がある場合にはそのグループ内で自然と発言が出てくるようになってきます。なぜなら、すでに絵文字でポジションを明確にしているため、個人宛に送る意味がないのです。

私たち日本人は意思表示をするのが苦手で、会議の場においてもどうしても沈黙になりがちですが、一方、世界の標準は「沈黙は同意」とみなされます。しかし、日本では不同意である場合が多く、それではいたずらに時が過ぎてしまい、何のために集まって話し合いをしているのかわかりません。

私たちは、一つの目的を達成するために大切な時間やお金をかけて集まっているということをいつも忘れてはならないのです。誰の人生にも限りがあるのですから。


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