わたしがクレヨンしんちゃんのアニメを見ることがしんどい理由

なんか、むかつく。


原作漫画ではそう思わなかったのに、テレビアニメとして
動きと音声、そして効果音が入るとどうしても腹立たしくなって
いつの間にか見ることをやめてしまった。


 けれども、最近自分の人生についていやでも向き合わなければいけなくなり、その流れでYouTubeに落ちている非合法の動画を見る機会が多くなった。

 内容をよく見ていると、このお話はもしかすると現代社会で起こっている様々な障害特性について理解を深めることができるように作られている、という発見をもらい、自分の経験からという極めて狭い範囲で考察してみる。


 まず、登場人物の子供たちを
特性と生育状況・生育環境に分類してみよう。


 野原しんのすけ→ADHD(多動傾向)愛情が過剰な家庭、だから多動傾向がよい方向に出ていて、言葉による暴力や身体的な暴力を受けたことがない、というか受ける必要がない。

自分の場合はここが著しく欠けている。
 欠けているから、周囲の人間関係に対して憎しみを持ち、その憎しみが更なる暴力を呼び、暴力に暴力を重ねることで周りに関係を持ちたくないと拒絶してばかりいたのかもしれない。

 だから、多動の特性を上手に生かして、他人を受け入れる人生ができなかった、そして、そういうことができる人たちをうらやむどころか、さらに憎んでいた。
これでは、ちょうどよくなるものもよくならないのは当たり前。


 風間くん→アダルトチルドレン、母親の愛情が過剰に出すぎる。

 これ、なんかやばそうだぞ、としか言いようがない。

 お父さんは海外出張、とか言っているけれど、なかなか帰ってこないじゃないか。

 なんか父親は別の国か街に別の家庭を作っていて、ただ生活費と養育費を振り込むだけの存在になっていて、その反動で母親が過剰に愛情と期待を注ぎ、その期待と愛情にこたえている、5歳にして、もう大人じゃないか、けれどもその反動が変な形で出ることを恐れている。

 恐れているから、しんのすけの多動を受け止めようとするとき、少し暴力的傾向が出ちゃうし、もえPというキャラクターを好きだということが知られることを恐れるのも、

 父親と同じ性的嗜好であることを嫌悪している(もしかしたら、もしかして)のかもしれない。


 紅一点のねねちゃん→アダルトチルドレン、虐待の家系

  いったい、リアルおままごとのネタをどこから仕入れているのでしょうね。

 この家庭、一見いい人を装っているけれど実はものすごく怖い、
その怖さが先祖代々続いていることがなお怖い。
特に母方の家庭が虐待の家系なのかもしれない。

 母親が誰かを虐待したくなった時、ウサギのぬいぐるみを取り出して、そのぬいぐるみを虐待する、という行為を子供が見て、子供がそれを繰り返す、という連鎖、というところに超えてはならない一線を越えない努力、というものが見えてしまう。


 次二人は生育状況・生育環境がよくわからない。


まさおくん→自閉症スペクトラムの疑い。

親はその事実をわかっているのだろう、そしてふたば幼稚園の園長先生たちもわかっているのかもしれない、なんか、周りの大人たちがその事実をわかって接している。


 そして、ぼーちゃん。

 この子だけ名前がない、そして日常が断片的。

 しかし、世間の定説が真実であるなら全盲の両親を幼くして、というか、ヘルパーの大人たちと一緒に支えるヤングケアラーであるがゆえに話を聞くことはできても、話すことがままならないのかもしれない。


 こうやって、登場人物の子供たちを見ていると、いろんな凸凹をふざけながら、助け合う、という形でまぜこぜの社会を形成して
いることがよくわかる。

 だから、この場にいることが心地よく、どんなに厳しく耳の痛い言葉でもすんなり受け入れることができる。

 こういった受容状態がないと周囲に対する不信感は増幅し、耳の痛い言葉は憎悪から生まれた言葉だと受けとってしまい、この場にいることがより難しくなる。

 難しくなるから凸凹を悪いように感じ取ってしまい、死んでしまえばいいのに、殺してしまいたい、という感情が自分の中にいつも、いつも起こってしまう。

 この感情がひとたび発生してしまえば、わたしは自分からおとなしくすることができなくなり、まわりからおとなしくさせられている、という良くない感情が生まれ、その場にいると、変にいらいらして、その時点で抱えているすべてを放棄して、実際に逃げ出したことが私の人生。

 この、死んでしまえばいいのに、殺してしまいたい、という感情が自分の持つ生きにくさの根っこにあることを今まで知らなかった、知らなかったからどうにもできなかった、ということを認めて、自然に受け止めて、これからの人生を生きていこう。

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