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【エッセイ】藤本タツキと僕 「ルックバック」から
2011年の夏、僕は当選したばかりの高橋市長と京都にいた。水戸に京都造形芸術大学(現在の京都芸術大学、以降京都造形)を誘致したいと真剣に考えていたからだ。たまたま、京都にいた市長に声をかけた。水戸近郊に、この大学で日本画の教鞭をとる先生がたまたまいて、その方に紹介してもらって、理事の皆様とお会いした。
「水戸に芸術大学を作ってください」
東日本大震災をリアルに体験した僕は、そのころ、その鎮魂のために自分ができることを全てやろうと考えていた。水戸芸術館の水戸市に芸術大学をつくり、この街でアーティストを育てることは、僕にとって大震災の弔いの意味があった。(取手市の東京芸大はもともと水戸にできる話があった。それが平山郁夫コレクションを展示する東洋美術館の話になり、その話も当時の岡田市長によって破棄されたと、故吉田光男氏から聞いた)
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1991年に、東北芸術工科大学(以降東北芸工)が山形に京都造形の分校のような形ででき、僕は2008年から十和田市現代美術館のプロデュースのために青森県十和田市に通っていた。2011年に東日本大地震が起こり、本業のダメージは甚大だったが、それでも僕は指定管理者の責任者となり、十和田に通い続けた。2013年に隣の秋田公立美術大学ができた。東北は、芸術家の育成のために、多くの資源を投入していた。藤本タツキはきっとこの頃、東北芸工の学生で、十和田にもきていたかもしれない。大学誘致はうまくいかず、アーティスト・イン・レジデンスも中途半端に終わってしまったが、とにかく自分ができることは全てやり尽くした。(一年で終わった国際芸術祭「茨城県北芸術祭」も当時の橋本知事に僕が進言したものである)
2018年、東北芸術工科大学の卒業生である藤本タツキが「チェーンソーマン」をジャンプに連載を始めた。その天才ぶりはご存知の通りである。そして本年2024年「ルック・バック」の映画化により、彼の天才と過去日本の文学が果たしてきた役割が、漫画に移行したことが明確になった。1人の天才を産むためには、その環境を整えてから、30年はかかる。学校とはそういうものだと思う。それは、経済合理とは別なもっと民族の魂の歴史に関わる問題である。
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「ルックバック」は、多くの場面が主人公、藤野の妄想であることを指摘されているが、現実と妄想が混濁していて、一読しただけではわからない。そしてそれはおそらくどちらでもいいことなのだ。こうした前提は、文学の世界では一般的である。背景に 2019年京アニの事件や、シャロンテート殺人事件があることは明確で、人々の熱狂が生み出す狂気、理不尽な殺人事件、その犠牲者、その後立ち現れる闇と静寂・痛み、こうしたことは、本来小説や詩が引き受けるべきものだった。(藤野と京本を合わせれば、藤本であり、通り魔に殺される京本の京は京アニを想起する)
絵(漫画)にしてしまうと、イメージが限定されてしまい、読者の想像力と共犯関係を結べないからだ。あらゆる詩的芸術は鑑賞者とアーティストの相補性が、必要である。しかし藤本タツキは それを緻密な構成と展開の重層性、確かな画力によって軽々と乗り越えてしまったようだ。文學の兄弟である映画の力を借りて。
漫画は、日本人にとって新たな芸術言語になったのだ。1970年代、僕は子供の頃、漫画を読むことは親に禁じられていた。バカになると言われた。僕は、家の外で貪るように、漫画を読んだ。ほとんどが立ち読みである。週刊少年ジャンプ、マガジン、サンデー、キング、チャンピオン。毎週のように新しいコンテンツが僕の前に現れて、新しい世界を繰り広げた。そもそもディズニーアニメの模倣から始まった(手塚治虫)日本の漫画は、トキワ荘の天才たちによって、新たな地平が開けたばかりだっだ。
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漫画「ルックバック」は、クエンティン・タランティーノ監督の映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」がモチーフとなっていて、「インターステラー」や「ジョーカー」の影響も指摘されている。映画から影響を受けたであろうカメラワークや構図、動画から切り抜いてきたかのような自然な表情、コマ送りのような表現など、映画的な手法が取り入れられている。20世紀末、僕の青春期には、映画と小説がある種の普遍的な感情芸術として成立していた。漫画はまだ、そこまでではなかった。(岡崎京子や大友克洋や押井守など一部の例外を別として)
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藤本タツキの「ルックバック」は、あらゆる表現芸術におけるアニメ(漫画)の勝利宣言である。それは、日本文学史における川端康成や太宰治が築いたものに近い。これから、漫画の三島由紀夫、安部公房、大江健三郎が生まれるのだろう。僕は、これまで純文学を信じてきた人間だから、それと殉死するしかないが、次の日本が、漫画・アニメを通して普遍的な表現(それは、ホメーロスやシェイクスピアやダンテやゲーテのような)を歴史に刻むことを期待する。「ルックバック」は、そのくらいの強度をもった作品である。時代は変わり続けるのだ。
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