桶狭間の戦いの考察2
今川義元が何故桶狭間で破れたのか、を考察する記事。
第二回は尾張(斯波氏)のお話を。
なかなか桶狭間どころか義元、信長すら登場しませんが、今川家がなんで遠江、三河、尾張の支配を目指したのか背景が分かればより桶狭間に至る経緯が分かるかと思いました。
■足利一門家、斯波氏
前回、足利一門の名家として吉良氏、今川氏を紹介しましたが、もうひとつの足利一門の名家である斯波氏を紹介します。
足利4代目当主泰氏の庶長子、家氏を祖として、代々尾張守を自称したため「足利尾張家」とも言われています。
家氏は陸奥国斯波郡の地頭職に任じられていたことから、その一族は「斯波」の姓を名乗ることになりますが、家氏自身は生涯足利姓のままで、「斯波」の姓が公式に使われ始めるのは室町時代になってからです。
おそらく家氏の時代にも「斯波様」という呼称はあったと思いますが、家氏自身、複雑な事情があって足利当主になれなかったので、終生「足利」を名乗り続けたのかもしれません。
室町幕府内でも、家臣ではなく足利一門として認識されていたようで、吉良氏、今川氏と同じくらい重要な名家に位置付けられていました。
斯波氏は室町幕府では細川氏、畠山氏と管領職を交替で任ぜられる、奥州探題に任ぜられる等、室町幕府の中枢を担い、この頃から当主は左兵衛督に任じられたため、兵衛府の唐名である「武衛」と称されるようになります。
守護に任ぜられた主な地は越前、尾張、遠江、陸奥、出羽。「尾張守」を称していたから最初から領国だったかと思いきや、本拠地は越前で、尾張、さらには遠江の守護に任ぜられたのは「応永の乱」で功績を立てた後になります。
しかし、幕府の中枢であるが故、また領国が隣接せずに飛び地になっていたため、各地には「守護代」と呼ばれる代理人が統治を任されていました。
斯波氏も領国は大事にしたかったと思いますが、京都周辺は細川、畠山の両家に抑えられており、幕府での政権争い等の関係から、なかなか領国に戻れなかったという事情もあると思います。
室町幕府当初は斯波義将という名管領を輩出して権勢を振るいましたが、義将死後は次第に衰退。
本拠地の越前は守護代の朝倉に奪われるは、遠江は一揆が起きたり今川から侵略されたりで、領国が削られていきます。陸奥は奥州探題に任ぜられていたので、さすがに一族が統治していましたが、京都から遠いのでこちらもほぼ独立状態。
しまいには応仁の乱が勃発して、領国は尾張一国のみに。
とはいえ、武衛家はまだまだ尾張では力がありました。本拠地の越前が朝倉に奪われてからは尾張に腰を下ろして、統治にあたります。
この時に活躍したのが、守護代の織田氏でした。
そして歴史が繰り返されてしまうのです。
余談ですが、斯波氏の出羽の系統から大崎氏、最上氏、天童氏へ派生します。伊達政宗の伯父最上義光はこの系統にあたります。
血統で見る歴史の流れはかなり面白いですよ。これを知っていると大河ドラマとからひと味違った楽しみ方ができます。
ちなみに、斯波氏の前の尾張、遠江の守護ってどの家でしょう?
実は今川氏なんですよ。
斯波氏は今川氏から尾張、遠江の地を奪う形で守護に任ぜられています。
なので斯波氏と今川氏は物凄く仲悪いです。今川氏の当主が討ち死した戦いも、斯波氏と遠江支配を巡る戦いで起きています。
なので、斯波氏、今川氏のどちらも駿河から尾張に至る海道筋は「自分の土地」という意識があるんでしょうね。
事実、桶狭間に至るまで大小様々な戦いが勃発していますし。
さて、ちょこっとですが、織田氏が出てきましたね。前回で「出てこない」といいましたけど、さすがに無理がありました。
次回はこの織田氏について。