桶狭間の戦いの考察5
今川義元が何故桶狭間で負けたのかを考察する記事、第5回目。
今回は三河のお話。
■三河国で台頭した松平氏
現在の愛知県東部にあった三河国。
戦国期では矢作川周辺を「西三河」、吉田川周辺を「東三河」と呼びますが、古くは西三河のみを「三河国」と呼んでいたようです。
駿河、遠江、尾張と大小様々な動乱があったため比較的落ち着いているように思われる三河国ですが、そんなことはありません。
三河では室町幕府成立当初の観応の攪乱で吉良氏が分裂・抗争を起こし、三河の国人衆も両派に分かれて争い続けていました。
さらには三河守護職一色氏は、1440年以降細川氏にその地位を奪われ、応仁の乱では三河守護の細川成之が東軍、一色氏当主の一色義直が西軍について争うことになります。
三河の戦いは西軍優勢で、乱の終盤には三河守護代東条国氏を攻め立て自害に追い込みますが、この時、義直と嫡男が丹後守護に任ぜられる代わりに東軍側についたんですよね。
話が違うと激怒した細川成之は幕府への出仕を止め、一色氏も三河の支配を放棄せざるをえなくなりました。
その後の守護は誰かって?
誰もいません。
誰も三河守護に任命されず、守護が不在の地になったのです。
氏親・宗瑞が遠江侵攻時、三河まで手を伸ばしたのはこのためです。
空き地ですから、切り取り放題ですし。
しかし、そんな今川勢に待ったをかけたのが、三河国松平郷出身の松平氏でした。
松平氏、初代と2代目は資料に名前がありません。3代目とされる松平信光は三河守護細川成之の要請により、幕府政所の伊勢貞親の被官となり、将軍足利義政の命で三河で起きた「額田郡一揆」を戸田氏、今川氏と協力して鎮圧します。
乱鎮圧の恩賞として、松平氏は西三河で、そして戸田氏は東三河で新たな地を与えられます。
応仁の乱でも三河守護細川成之とともに東軍に属して、西軍側の安祥城を攻略するなど功績をあげています。
その子、松平親忠が安祥城を拠点としたことから、安祥松平氏と呼ばれ、この系統が家康に繋がっていきます。
その安祥松平氏に傑出した人物が現れます。
松平清康です。(家康の祖父)
祖父は親忠の子、松平長親。氏親・宗瑞が三河に侵攻した際、少ない手勢ながら巧みな用兵を駆使して撃破した名将でした。
長親の子、信忠は暗愚と言われ、家臣を纏めることができず、若くして清康に家督を譲り隠居します。
清康は祖父の血を色濃く引いたのか、戦に滅法強く、1523年に家督を相続すると、わずか3年で西三河を制して岡崎城に拠点を移し、さらに1529年には東三河の大部分を勢力圏に収めています。
この時、清康わずか20歳。つまり10代で西三河を、20歳で三河のほぼ全土を支配したのです。
さらに西三河の実質的な支配権を確立させ、従来の支配層である吉良氏に対抗するために源氏の血脈である新田義貞の一門得川氏の庶流世良田氏に目を付けて、「世良田次郎三郎」とも名乗りました。(これが後に徳川改姓に繋がります)
喧嘩も強ければ頭もキレる。
しかも若い。
若き当主に率いられた松平氏の前途は明るかったでしょう。
この時、今川はというと、1523年以降は氏親が病(現在の脳卒中)に倒れて寝たきりになります。
死期を悟った氏親が領国経営や家督争いの内乱を避けるため、1526年に分国法の「今川仮名目録」を制定します。
その2ヶ月後、今川氏親はこの世を去ります。
後を継いだ氏輝は若干14歳。
当主亡き後、多少の混乱はあったでしょうし、氏輝は生来病弱で、三河へ遠征できるような力はありませんでした。
つまり、手が出せなかったのです。
宗瑞も1510年前後から今川の武将としての働きは無くなり、1519年に亡くなり、小田原は嫡男氏綱が後継となり、後北条氏の時代へとすすみます。
三河を制した清康の強さは鳴り響いていましたから、あまり手を出さないことにしたのでしょう。
西三河出身のためか、清康の目が東でなく西に向けられていたのもあったかもしれません。事実、清康はたびたび尾張と三河の国境から尾張領内に攻めこんでいました。
1535年、清康は尾張に出兵します。
その頃の尾張は、守護代家老からのしあがった織田信秀が斎藤道三との戦いで苦戦している真っ最中でした。
尾張勢の間隙をついた出兵です。
勝算は十分にありました。
しかし、ここで思わぬ事件が発生します。
織田方の守山城を攻略中、自陣内で松平清康が暗殺されたのです。
その翌年、今川氏も凶事に襲われます。
当主の今川氏輝が亡くなります。
そしてここから、今川氏、松平氏、織田氏の三つ巴の争いが幕を開けます。