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セットアップ

「さあ、セットアップだ!」
私が設定の説明を始めるとき、いよいよ交流に入るよというときによく言う言葉です。

AL授業には多くの場合、〈設定〉があります。〈ロールプレイ〉を行うときはもちろんですが、〈設定〉を施した方がALがより機能するという構造があります。

例えば、「○○中学校を改革します。どんな改革をしたら良いと思いますか」と問うよりも、「あなたは校長先生です。○○中学校を改革します。どんな改革をしたら良いと思いますか」という設定の方が、教師が子どもたちに考えて欲しかったテーマや論点に近づくはずです。子どもの視点から改革案を考えると、中にはあまりにも現実からかけ離れた実現不可能なアイディア、子どもが自分の特殊性に鑑みず提示するわがままな面のあるアイディアなどが出てくるものです。しかし、「あなたは校長先生です」と規定するだけで、そうした方向性はかなり抑制されます。校長先生は学校をみんなのためによくしようと考えている。子どものことだけではなく、先生方のこと、保護者のこと、地域のことをも考えなくてはならない。自然とそうした前提ができる上がるわけです。

例えば、幾つかの短歌や俳句の完成度をランキングさせたいとしましょう。このとき、「これらの短歌を1位~8位までランキングしなさい」「これらの俳句で一番いいもの、完成度の高いものはどれですか?また、一番低いものはどれでしょう」と問うても確かに機能はします。しかし、それよりこんな風に問うてみてはいかがでしょうか。
「皆さんは歌人です。しかも日本有数の歌人です。今回、ある文芸誌で新人短歌大賞の審査員をすることになりました。同じように有名な歌人四人で審査をします。この八首が最終選考まで残りました。大賞を一点、次点を二点、佳作を五点選びます」

短歌や俳句の鑑賞の観点、完成度を判断するための観点は様々にあるものです。実際にランキングするとなるといろんな観点から検討せねばならず、最後は好みの問題になるということもしばしばです。それでもこれは「公的な判断」なのだという立場に立つことで、つまりはそうした公的な設定を施すことで、子どもたちは「自分の好みでいいや」「まあ、こんなもんだろ」といった甘い感覚が大きく抑制されるのです。なぜ短歌Aが短歌Bより優れているのか、なぜ俳句Cのこの表現は他を圧倒するほどの価値があると判断できるのか、こうした論拠を具体的かつ論理的に考えざるを得なくなります。こうした活動は最後に選評を書かせるととても学びが深くなります。

二つの例でおわかりかと思いますが、〈設定〉を施すことには子どもたちの視点・視座を「公的な立場」に移行させる効果があります。AL型授業は自分だけでは到達できない高い次元でものを見ることや独り善がりにならないように広い視点でものを見ることを目指して行われるものです。要するに、独善に陥らず他者の意見を参考にして自らの思考を〈メタ認知〉してみようとする営みです。とすれば、課題そのものに〈公共性〉を付与することによって、より高次の、より広い視座に立てるよう促すことはALを機能させるために極めて重要な条件と言えます。

もちろん特殊な設定を施すことなく、子どもたち自身の立場で考え判断して欲しいと思えるテーマはたくさんあります。算数・数学や理科、英語といった教科に見られるALは多くの場合がそのような活動でしょう。しかし、私の経験上、国語や社会、道徳などにおいて「社会とのつながり」を想定して考えてほしいという場合には、その多くが「公的な立場」に立つ設定を施して子どもたちに「公共性」を意識させた方が良いという場合が多いように感じています。

二十一世紀になった頃から、「他人の気持ちがわからない」「立場を考えて発言できない」「すぐにキレる」といった子ども像が盛んに問題視されるようになりました。国語科で「伝え合う力」が大々的に提唱され、学校教育における「対話」の重要性が指摘されるようになったのにはそのような経緯があります。そして最近ではついに、「バイトテロ」や「キレる老人」といった、大人の話にまでなってきました。授業論としてのALの導入もこれと決して無縁ではありません。要するに子どもたちに限らず、日本人全体の〈メタ認知能力〉が下がってきているのではないかという不安が巻き起こっているわけです。

「さあ、セットアップだ!」
この言葉はこのような現状において、「さあ、公的に考えてみるよ」「自分を超えるものを想定してみるよ」という意味合いをもっています。もちろん子どもたちにそう説明するわけではありませんが、子ともたちはそれなりに「今日は何になるのかな……」と楽しみにしているようです。

校長先生になってみる。審査員になってみる。兵十になってみる。マイノリティになってみる。被害者や加害者になってみる。裁判員になってみる。ヒロシマやフクシマの住人になってみる。それは自分を超えて「その立場に立ったらどんな風に世界が見えるのか」を想像してみることを意味します。さまざまな立場を想定してみることを意味します。自分には見えない世界があること、そして逆に自分には見えているのにそうした立場の人たちからは見えないこと、言わば、人には「死角」があることを学ぶ。AL型授業にはこうした機能があります。そうした学習の繰り返しこそが、実は子どもたちの〈メタ認知能力〉を醸成していくのでです。

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