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自信がないと成長できない

教師は何より変化を恐れます。変化しないことが最も楽で、安全で、安心だからです。でも、〈変化からの逃避〉は、実は〈成長から遁走〉を意味しています。変化のないところに成長などあり得ないからです。そして変化しないこと、成長しないことは子どもたちの前に立つ資格を問われるほどの重大事なのです。

自分の学級経営がどのように形づくられてきたのか、意識したことがありますか?現在、採っている学級経営の手法が何をモデルにして形成されてきたのか、考えたことがあるでしょうか。

例えば、学級担任をもてば、春には学級組織をつくりますよね。班とか係とか日直とか当番活動とか席替えの仕方とか、そうした学級のシステムをつくるはずです。

しかし、あなたが作っているそのシステムは、いつだれから学んだものでしょうか、或いはいつだれの影響を受けてつくられたものでしょうか。意外と自分が小中学生だった頃の担任の先生が敷いていたシステムをもとにしているとか、新卒の年に隣の先生に教えてもらったやり方を基盤にしているとか、そういうことが多いのではないでしょうか。

もちろん、そうして学んだ学級システムが悪いというのではありません。良くないのは、それを改変することも修正することも点検することもなく、使い続けることです。実はベテラン教師の中には、20年、30年にわたって何の疑問も抱くことなく、新卒時代に狭い範囲で学んだことを絶対視して使い続けているという方が少なくないのです。

学級システムだけではありません。授業の仕方、行事への取り組み方、生徒指導の在り方、評価評定の在り方、テストの作り方などなど、教師という人種はそれまで慣れ親しんだ手法をなかなか変えることができません。

もちろん、その手法が機能しているのならば必ずしも変える必要はないでしょう。しかし、同じ手法を8~10年程度使っていると、時代の変容や子どもたちの変容によって耐用年数が切れてくるものです。なのに教師は自分のやり方にこだわり続け、なかなか変えようとしない、変わろうとしないという傾向があります。また、転勤によって質の異なる子どもたちを受け持っているにもかかわらず、同じ手法で実践し続けるという傾向もあります。

物事には不易と流行があります。しかし、一般にシステムやスキルが不易であるということはありません。教育における不易とは、教育理念や教育思想、学力の構造といった「観」のレベルです。その「観」を実現するために、時代に合ったシステムや生徒たちの実態に合ったスキルが選択されるのは必然的なことです。従って教師は、常に時代の変容と、その時代によって変容する生徒たちの実態に敏感でなければなりません。そしてその実態を捉えるとともに、常にいま目の前にいる生徒たちの実態に合致したシステムを敷き、いま目の前にいる生徒たちの実態に合致したスキルを身につける必要があるのです。少なくとも常にそれを模索し続ける存在でなければなりません。

教師はいつだってシステムを変え、スキルを変え、そして自らが変わる用意をもたなくてはならないのです。

変えるために最も必要なことは何でしょうか。私は長年、この問いについて考えてきました。そして、いまのところ「これじやないかな」と合点がいっている到達点があります。

それは「自信」です。変えることによって予想外のこと、想定外のことが起こる、それに対応できるという信頼を自らに寄せる、そういう人だけがシステムやスキルを変えることができるのです。自信のない人は、予想外のことや想定外のことが起こるのを怖れ、システムやスキルを変えることを拒みます。「自信」をもっていない人ほど変えられません。

私はそんな自信はもてないなあ……と感じる読者がいらっしゃるかもしれません。その気持ちはわかります。いいえ、そうした態度でいることは、もしかしたら人として謙虚であるともいえるのかもしれません。

しかし、大切なのは、教師という職業が生徒たちに「変われ」と言い続けなければならない職業である、ということです。私たちは生徒たちを変えなければならない立場にいるのです。そんな私たち自らが現状維持に安住しているとしたら、私たちに生徒たちの前に立つ資格があるのでしょうか。「変化しないこと、成長しないことは子どもたちの前に立つ資格を問われるほどの重大事なのです」というのは、そういう意味です。そして「成長」とは、現状を破壊し再構成すること、即ち「変化すること」なのです。

日々学び続け、日々変化し続け、日々成長し続けることによって、生徒たちに自信をもって言おうではありませんか。

成長せよ、私も成長する──と。

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