ナルシスですけど……何か?
はい? ええ、ナルシスですけど……、何か?
教師が人目をはばからずにこう言えるようになったら、もっともっと学校教育が機能するだろうに。そう夢想することがある。だいたい職員室にはナルシスしかいない。教師ならだれもが知っている。いや、実は生徒だって保護者だってみんな知ってる。でも、世間がそれを許さない。世間は学校が子どもたちのためにあるという建前を絶対に崩さないし、教育基本法は少しくらい改定されたって学校が健全な市民を育てる場であることを謳い続ける。学校が教師の自己実現の場などとはだれもが決して認めない。だから教師は自分がほんとうはナルシスであることを語らない。というより語れない。
語れないから、自分のやりたいことをやるのに理屈が必要になる。当然その理屈が気に入らない人とは軋轢を起こすことになる。何度か軋轢を起こすと、だれとも軋轢を起こさないような理屈に改め始める。理屈の骨が抜かれる。結果、だれも反対できないような美しい抽象論だけになっていく。こうして美しい抽象論だけで教育が語られるようになる。だれもが満足する。みんな満足する。もう軋轢は起こらない。そのうち、忸怩たる想いで美しく抽象化したはずの教師でさえ、その美しい抽象論を信じ始める。もともとそう考えていましたけど……、何か?ってな具合になる。美しい抽象論はできないことをできると錯覚させる。必要悪と呼ばれる例外があることも認めない。だから至るところで現実と齟齬を来す。その齟齬のギスギスを真正面から引き受けさせられているのが現在(いま)の教師である。
こんなことなら、最初からナルシスだと認めておきゃ良かった……後悔しても始まらない。学校教育では、みんなで美しい抽象論に酔うことに決めたんだもの。それが国民的コンセンサスなんだもの。そういう職業だと諦めて、そういう役割だと諦めて、日々仕事に勤しむしかない。こうしてサラリーマン教師があふれ出す。でも、サラリーマン教師もやり玉に挙がる。美しい抽象論を具現化していないとクレームをつけられる。はい、そうですかとばかりにクレームが来ないように対処する。子どもや保護者の意にそぐわないことを避け始める。こうして学校教育はサービス業に堕してきた。教師も保護者も政治も法律も、ほんとうはだれも望んでいないところに落ち着いてしまった。それが現在(いま)の学校教育である。
最近は残業代も出ないのに無限に仕事が増えていく教職の在り方に対して愚痴るブログが人気を集めていたりする。ほぼボランティアで動いている部活動の在り方を批判するブログも一部の教師に人気である。学校を「ブラック企業」呼ばわりするサイトさえある。堀井憲一郎によれば、若者にとって「ブラック企業」とは残業手当を出さずに残業を当然の日常として要求する企業のことであるらしいから、そういう意味では確かに教職は法律で完全に認められた「ブラック企業」かもしれない(「やさしさをまとった殲滅の時代」)。しかし、これだけ安定した生活を保障してくれる「ブラック企業」もないわけで、その意味では教職にある者がこんなことを叫んでみても世間から手痛いしっぺ返しをくらうだけである。八方塞がりだ。
ときどき、もう教師は「大ナルシス集団」であることを宣言してしまってはどうだろうか、と思うことがある。「子どものため」と口では言ってますが、決して子どものために動いているわけではないんです。子どもの成長を鏡にして自己実現しようとするのが教師という職業の一般的な在り方なんです。そう宣言してしまうのだ。教師の各々が自分のナルシシズムの核となっている「やりたいこと」に徹底して取り組むのである。全員が一芸をもち、その特性を公開するわけだ。
そして、履歴書にも正直に書く。「学級崩壊率が2割ほどありますが、校内装飾と教室環境整備には自信があります。」とか、「学級崩壊経験ありません。生徒指導もそこそこできます。でも、事務仕事が大嫌いでゆるいです。締切守るのもちょっと苦手。」とか、「担任持ちたくないです。でも、サッカー部の指導、命かけてやります。三年以内に県大会ベスト4入り、五年以内に全国大会出場させます。」とか、「生徒と接するのには苦手意識がありますが、頑張ります。二年後の新教育課程実施に際し、地域の特色、学校の特色を打ち出した教育課程を創造します。」とか書くわけだ。これを人事に活かす。多様な人材を集めて、様々なプロジェクトを職員室につくっていく。基本的に各々が「やりたいこと」を中心に仕事に取り組めるように人事を動かす。
やりたいことやってるときの教師の力には、けっこうすげえもんがあるんだぜ。教師のモチベーションアップには、これが一番いい方法だと思うんだけどなあ(笑)。