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若手教師の育成
「若手教師の育成」が大流行りである。子どもたちへの対応、保護者への対応、さまざまな教育課題への対応、日を追って難しくなるように見える学校教育に若手教師がつぶれてしまう。教師を志す学生の減少、教員採用試験の倍率の低下が避けられない状勢に至り、優秀な若者を獲得する手立てを講じるとともに、採用された若者たちを育てなければ学校教育は立ちゆかない。そういう論理である。
しかし私には一歩先を行く安定した位置にいる者たちが新たに自己承認を得られる場、新たに自己確認を得られる場、新たに教師としての優越感を抱ける場を獲得するための発言に見えて仕方がない。教育行政のシステムづくりの失敗、新たに教師になる若者たちの力量のなさ等を指摘し、大変だ大変だと言って対策をああでもないこうでもないと語っている限り、自分は安全な位置で自己承認と自己確認と優越感を得られる。そうした主張をする人たちには、そもそも自分には若者を育てようなどという資格があるのか、それほどの高い力量があるのか、という問いが抜け落ちている。
結局、自分は教員採用試験の倍率が高かった頃に採用された「かつての優秀な若者」であり、自分はこれから力量のない若者のことを考えて校内システムをつくろうとしてる心優しい中堅・ベテランであると言っているのではないか。力量のない若者たちが大量採用されたら被害を受けるのは子どもたちだ、という論理も聞くけれど、もしそうなったとしたら新たな教育システムが出来上がっていくだけなのではないか。現場の人間が少しくらいこの動きに抵抗したとしても焼け石に水。私にはそう見える。
そもそも大量採用される力量のない若者たちに研修を…という論理は、これまでの学校教育がこれまでどおりに運営されていくという前提で主張されている。むしろいま起こってることは学校教育がガラガラと音を立てて崩れていっている、ということではないのか。私にはそう見えてならない。
歴史上、教職に優秀な人材など集まったことはないし、教育行政の敷くシステムが満足に機能したためしもない。それでもなんとか学校教育が延命し続けているのは、学校教育というものに対する国民的コンセンサスがかろうじて得られているからである。学校の制度疲労が指摘されてもう30年が経とうとしている。国民的コンセンサスが低下していけば、学校教育は音を立てて瓦解していくしかない。そういうものなのだと思う。むしろ、そろそろこれからの新たな教育システムはどういうものなのかを議論する時期が来ているのだと思う。