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多忙なら必ず多忙感をもつ?

僕は「忙しい」と呟いたことがない。もっと言えば、自分が忙しいと感じたことがない。

「忙しそうですね」と言われたことはある。僕は自分の予定をブログにアップしているから、毎週末に全国を飛び回っているのを見てみんなそう言う。「これで平日は勤務があるんですよね」とも驚かれる。でも、それは当たり前のことだ。それを承知で週末に予定を入れているのだから、文句は言えない。だいたいそういう予定に文句を言いたくなったら、僕は週末に予定を入れなくなるだろう。週末の研究会は必ずしも「やらなければならないこと」ではない。どうにもきつくて、もうやめようと思えばいつでもやめられるものに過ぎない。

多忙と多忙感は異なる。他人から見たら超多忙なのに多忙感を抱かない人もいれば、周りからは暇そうに見えるのに「忙しい忙しい」と多忙感に苛まれている人もいる。このシンプルな構造に多くの教師が気づいていない。

土日は毎週部活の指導、そういう教師が中学校には多い。盆と正月以外の休日はすべて部活なんて教師も決して少なくない。三連休があれば当然のように合宿を入れるという教師さえいる。こういう教師に周りの人が「そんなに頑張らなくても……」などと声をかけるのは大きなお世話である。彼らはそれが生き甲斐なのである。野球やサッカーの中継を見ながらビールを呑むのに幸せを感じる人と同じように、彼らはそういう時間に幸せを感じる人種なのである。或いは新しいゲームが出るとクリアするまで徹夜でやってしまう子どもと同じように、彼らはそういう時間に幸せを感じる精神構造をもっているのである。彼らはおそらく、周りから見ていかに多忙であろうと多忙感などというものは一切感じていない。

僕だってそうだ。僕にとって週末の研究会は道楽として意識されている。こんな髭面のおっさんのたいしたこともない話を聞きに、多くの先生方が休日に集まってくれるのである。僕が好き勝手を話すのを感心して聞いてくれるのである。その熱心さは僕が毎日授業している子どもたちの数十倍、数百倍にさえ感じられることがある。ここが大事なのだが、僕は好き勝手をしゃべっているだけである。これを道楽と言わずして何と言おうか。僕が週末が研究会で埋まっていることに多忙感を感じたことなどただの一度もない。

だからみなさんも部活や研究に勤しみましょうと言いたいわけではない。「やりたいこと」というのは人それぞれなのだと腹の底から理解しましょうと言っているのである。もし僕が見たくもない野球やサッカーの中継を見ながらビールを呑むことを強制されたら、その時間に多忙感を抱くかもしれない。多忙かそうでないか、多忙感を抱くか否かということの裏にはこうした構造がある。

さて、もう一つ大切なことがある。それは、やりたいことは人それぞれなのだから、仕事上にやりたいことがある人が、仕事よりも仕事以外にやりたいことをもつ人を責めることはやめましょうということである。部活が大好きで、土日がつぶれることも厭わない人が、部活をもたない人や部活指導にいやいや取り組んでいる人を責めるのを見ることがある。実践研究が大好きで、実践研究する自分をアイデンティティとしているような人が、研究なんて暇人のやることだと思っている人や校内研修会を年休で欠席する人を責めるのを見ることがある。どちらも自分の道楽を価値基準として他人を責めるという自分勝手な構造をもっている。

価値は多様である。子どもを育てるために使命感をもって教職に就いた教師も、家族や趣味を大切にするために安定しているからと教職に就いた教師も、同じ教師である。部活に価値を置く教師もいれば、実践研究に価値を置く教師もいる。一人一人の子どもに対応した教育こそが教育であると考える教師もいれば、文科省の文教政策に則って健全な市民を育てることこそが学校教育の使命だと考える教師もいる。どれも百%の正解ではないかもしれないが、どれも百%の誤答でもない。AもあればBもある。Cの要素もあればDの傾向も否定できない。それが教育である。

とすれば、A・B・C・Dそれぞれの良さを対立せずに発揮させる手立てを考えることこそが理に適っているのではないか。僕は日常的にそんなことばかりを考えている。僕の実践研究の要諦はそういう矛盾した指向性をどう掛け合わせるか、それらを掛け合わせたときに生じるネガティヴ事象をどう最小限に食い止めるか、そういうところにある。しかもある種の使命感をもってそんなことを考えている。

仕事というものは自分にとって道楽と意識され、かつその道楽が他人の役に立っていると実感できるとき、周りから見ていかに多忙であったとしても多忙感を感じられなくなるものなのだ。

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