ポジティヴな感情は「過剰」を生み出す?
この世にあるポジティヴな感情は須く「過剰」を生み出す。情熱や熱中が「過剰」を生み出す。過ぎたるは及ばざるがごとし。ときにやり過ぎが最初からやらかったときよりもマイナスを生じさせることがある。情熱や熱中を価値として生きる教師はこれを意識した方がいい。
僕は新卒の年、自分の学級を愛し過ぎてその後にもった学級を愛せなかったという苦い想い出をもっている。このことは拙著『エピソードで語る教師力の極意』に書いたから繰り返さないけれど、この経験は僕のその後十年間くらいの教員人生を狂わせた。狂わせたと言っては言いすぎかもしれないが、戸惑わせたのは確かだ。生徒を愛しすぎることは教師にとってときにマイナスにさえなるのではないか……そんな自問自答を繰り返したのが、僕の教員人生の最初の十年だった。
初めて学年主任として仕事をしたとき、僕は自分の学年の先生方を愛し過ぎて、過保護の過ぎる学年運営をしたことがある。結果的に僕の学年を離れた後、僕の学年の先生方は当然のように僕のようには過保護に接してもらえなくなり、中には心の病すれすれに陥った者さえいる。情熱や熱中が「過剰」を生み出すという僕の言葉は、こうした経験から生まれている。
自分で言うのもなんなのだが、僕はかなり「過剰な人」である。ノッているときにはぐんぐん進む。進みすぎるくらいに進んでしまって、ふと気づくと息切れしてしまう。そういうタイプの人間だ。何か新しいことを思いつくと一年くらいそればかりやって子どもたちにも呆れられてしまうことが多い。子どもたちに呆れられてしまうくらいやるのに、それに飽きてしまうとぱたりとやらなくなる。また新しいことを見つけるとまた一気にそっちに行ってしまう。そんな感じである。
最近もメンタルの弱いの女の子を部下にもったときに、この子はメンタルが弱いからと過剰にフォローし過ぎて、肩身の狭い思いをさせ、失敗してはいけないと息の詰まる仕事の仕方をさせてしまった時期があった。結果的に彼女と話しているうちに僕がそれに気づいて修正できたから事なきを得たけれど、あのまま僕が身勝手なフォローもどきを続けていたらと思うとぞっとする。
いまこうして本を書いているわけだが、執筆に関しても同じである。僕は二○一一年度から二○一二年度にかけて二十冊近い単著と編著を書いたけれど、二○一三年度はすっかり飽きてしまって一冊も書かなかった(笑)。時間はあるのにどうしても書く気が起こらない。それで編集者の皆さんにずいぶんと迷惑をかけてしまった。そういう意味では本書は僕の復帰第一作とでもいうべきものだ(「復帰」というには、書かなかった時期がずいぶんと短いけれど……)。最近になってやっと書く気が起こって、毎日の執筆生活に少しずつ充実感が戻ってき始めている。
「過剰」は常に「過剰」かというと、決してそうではないところがやっかいだ。「過剰」は一時期「過剰」であったが故に、その反動としての「不足」を産み、「空虚」を産み、ひどいときこには「虚無」を産む。安定してアベレージを上げることができなくなる。だからと言って、安定とアベレージを旨に生きようとすると、安定もアベレージもなかなか手にすることができない。生きるって難しい(笑)。
自分が「過剰」に陥ったときは、「自分はいま過剰である」で意識すること。そうすることで、現在の過剰がもたらすマイナス面に目が向くようになる。そこに目が向けば多少なりともそのマイナスを回避することもできる。逆に過剰のあとの虚無に陥りそうになったら、変に焦らないでルーティンを粛々とこなすこと。自らが浮上するのを待つこと。いまはそういう時期なのだとある種の諦めをもって淡々とこなすこと。これができるようになることが、「過剰な人」が安定し、アベレージを上げていくコツなのだと思う。
実は、「過剰な人」が他のことには目もくれずに過剰になっている時期、自分では気づかないまま、知らず知らずのうちに成長していることも事実である。しかし、それが成長であると気づかないことも少なくない。その過剰な時期を振り返って整理するということを、「過剰な人」は怠ることが多いからだ。「過剰な人」が過剰な時期を経験すると「過剰体力」みたいなものが確かにつくけれど、それを振り返り整理しないと安定的にその「過剰体力」を発揮できるようにはならない。従ってアベレージも上がらない。こういう関係なのだと思う。
自分が「過剰」に陥ったときには、「自分はいま過剰である」と意識すること。そして、その「過剰」を常に振り返り、プラス面、マイナス面を整理してみること、それが必要だ。初めて学年主任をしたとき、僕は若者たちを過保護にした。最近は年度途中に過保護だと気づいてすぐに修正することができた。こういうのを成長というのだと手前味噌で思っている。