量より質?質より量?
「量より質」を好む人と、「質より量」を好む人がいる。僕は後者だ。需要する側なら「量より質」も成り立つが、供給する側ならまずは「質より量」を信条とすべきである。
食べ物を例にするとわかりやすい。
ファーストフードの牛丼やハンバーガーなんかを腹一杯食べるよりも、コースで愉しめるイタリアンに高級ワインでほど良い満腹感を得るほうがいいに決まっている。コースじゃなくて、その日の気分で料理を選べたら言うことなし。個人的には、ミシュラン★つきの和食に大吟醸なんてたまらない。ちなみに札幌にある僕の行きつけはそういう店だ(ほんとは「行きつけ」なんて呼べるほどには行けないけど……)。これが「量より質」ってことだ。
でも、これが広がりの視点をもつと話が変わってくる。マックのハンバーガーとロッテリアのハンバーガーとモスのハンバーガーとなんとやらのハンバーガーと……というふうに、食べ比べられるというのなら、僕はミシュランに大吟醸よりもそっちを選ぶかも知れない。単にハンバーガーを腹一杯食べると言うだけでなく、別の学びが産まれるからだ。そう。いろんな店でハンバーガーを食して「量」を受容することによって、比較しながらハンバーガーの「質」について思考するという「質」への萌芽が産まれるのだ。こうなると、僕という人間は食欲を超えて、その学びのほうに惹かれ始める。
ここまでを読んで、「なーんだ、堀さんもやっぱり質じゃん!」と思ったあなた。そう。それは正しい。でも、イタリアンの味や高級ワインの味、ミシュラン和食や大吟醸の味をほんとうに僕らはわかって「おいしい」と言っているのか、というところが問題なのだ。有名なイタリアンのお店だから、このワインは高級だから、ミシュランが★をつけたから、大吟醸だから、そんな他者基準の「質」で、「質が高い」と判断してはいないか。でも、ハンバーガーの食べ比べは違う。子どもの頃から馴染んだハンバーガーについて、三店舗も食べ比べれば、僕らはそれなりに自分基準の「質の高さ」を判断できるのではないか。そこのところを僕は突きたい。
実はこういうことが教育界にもままある。同僚や友達に勧められて参加した研究会。そこで学んだ教育理念や教育方法。なんとなくそれを基準に始める教育実践。十年も経つとその道の大家と呼ばれ、「それ以外は認めない」の急先鋒。それ以外を認めない割には、それ以外と自分の方法との違いがいま一つよくわかっていない。そもそもその理論や方法の開発者が影響を受けたと明言している理論・実践にさえ目を通していない。ひどいになると、そんな自分のやっていることの出自となっている理論・実践さえ否定する。そんな自称「実践家」が多い。さて、この「実践家」の実践は「質が高い」と言えるだろうか。それほど有名ではない、市井の教師が開発した方法でも、とにかくいろいろ試してみて、そのなかから自分に合った方法、自分で手応えを感じた方法を追究していく。そういう経緯を辿った教師の実践のほうが実は「質」が高くはないか。
ここまでは需要側の話。供給側になると話はもっと大きくなる。一つの理論・方法にこだわり続けている人は、例えば言えば、フレンチ一筋、和食一筋の料理人みたいなものだ。子どもたちのなかにはフレンチがあくまり好きでない子もいれば、和食が苦手な子もいる。レストランならその店に行かなければ済む話だが、学校では子どもたちがその授業を避けることなど許されない。フレンチ一筋、和食一筋といった「一筋実践家」は多様な子どもたちに対応できていないのではないか。
百歩譲って、それでもフレンチ一筋で行くとしよう。さて、フレンチ一筋で料理の腕を上げるにあたって、フレンチだけつくって修業していれば素晴らしいフレンチの料理人が出来上がるのであろうか。和食やイタリアンや中華や……その他諸々にも興味を抱いて、それぞれの良さと限界を知ったほうが、「フレンチとはどういうものか」というフレンチの本質が理解できるのではないか。力量の高い「フレンチ一筋」になるには、フレンチを相対化する視座をもつ必要があるのではなかろうか。広い視野で「量」をこなし、自分基準の「質」を見出した者だけが、実は「○○一筋」の「質の高さ」を担保できるのではないか。僕はそんなことを思うのだ。かつて、「何でも見てやろう」と言った著名な文学者・運動家がいたけれど、教師に必要なのはこの「何でも見てやろう」という淫らさみたいなものだ。特に若いうちはこの姿勢が必要だ。一つに絞ろうなんて、若年寄になってはいけない。
僕はいつも若い教師たちにこう語る。
「まず量をこなせ。量を蓄えよ。質はあとから付いてくる。」