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当事者意識

小集団で交流する。
小集団で議論する。

さて、何を交流し何を議論するのでしょうか。言うまでもなく、子どもたちが個々の「意見」を交流したり議論したりするわけです。

ところが、意外と多いのが、子どもたちに課題を与えてすぐに交流・議論に入る実践です。子どもたちから見れば、自分の意見もないのに交流しろと言われる。自分の見解も固まっていないのに議論しろと指示される。そういう状況です。

AL授業は、企業研修の〈ファシリテーション〉をモデルとして考える教師が多いようです。確かに企業研修は〈問い〉が提示された後に、ほとんど間を置かずに交流・議論に入ることが少なくありません。しかし、企業で研修を受ける企業マンたちは、研修を受ける前から商品開発や営業戦略、職場の人間関係について、日常的に問題意識を抱いています。企業研修はそうした人たちを対象に行われます。だからこそ〈問い〉を発せられて間を置かずに交流・議論に入れるのです。しかも言うまでもないことてすが、企業研修は大人の集団で行われます。

一方、子どもたちはどうでしょうか。AL授業に際して課題を与えられる。その課題内容は子どもたちが日常的に問題意識を抱いているものでしょうか。もちろん、そのAL活動が特別活動において行われていて、「この学級の問題点は何か」「この学級をよりよくしていくにはどうしたら良いか」といった、子どもたちの日常に密接に関係しているものなら、企業研修と同じ機能を果たすかもしれません。しかし、教科の授業、道徳や総合で与えられる課題となると、そのほとんどが日常的に意識していないこと、今日初めて考える内容とであることが多いはずです。とすれば、いきなり交流・議論しろというのは、少々無理があるのではないでしょうか。

これまで考えたこともなかった課題。今日初めて知った事柄についての初めて提示される情報。確かに日常のなかにあったかもしれないけれど意識して生活してこなかった抽象的な話題。これらに対して「仲間と話すのだから交流できるでしょ」「議論できるでしょ」というのは少々乱暴と言わざるを得ません。おまけに「他者の意見と絡めろ」「できれば高次のレベルに到達しろ」と言われるのですから子どもたちも切ない(笑)。

そう。〈問い〉(=課題)を与えたら、まず最初にしなければならないのは子どもたちの黙考時間、熟考時間を保障することなのです。その時間で子どもたちが、まずは「自分の意見をもつ」ことが大切なのです。

「交流」とか「議論」とかというものは、参加者の全員が「言いたいこと」「言うべきこと」をもっているから成立するものです。全員が意見をもっているわけではないという状態で交流・議論を始めますと、一般に、いわゆる「声の大きい人」「オレがオレがと前に出る人」「仕切るのが好きな人」といった、外交的で積極的な人がほとんどを決めてしまい、他の人は「その他大勢」になりがちです。大人でもそうなのですから、これを学級の子どもたちで考えれば更に弊害は大きくなるはずです。もちろん、「いきなり交流」「いきなり議論」でもそれに対応できる子どもはいます。二割か三割程度はいるでしょう。学級の四割から五割程度を占める中間層もそれほど困らないかもしれません。しかし、これまた学級の二、三割を占める「おとなしめの子」「黙考・熟考型の子」はどうでしょうか。おそらく積極的な子がリードする交流・議論のペースについて行くことができず、「もういいや。私が意見言わなくても」と傍観者を決め込むことになるのではないでしょうか。その数分から数十分の間、回りと話を合わせてスルーさえしていればすべてが過ぎ去ってくれるのですから。

しかし、これではAL授業は成り立たないのです。ましてや「深い学び」など成立するはずもありません。そもそも小集団の交流も議論も成り立っていないのですから。小集団の交流・議論が最低限成り立つためには、①小集団を構成する全員が課題に対する自分なりの意見をもつ、②小集団を構成する全員が自らの意見を表明する、③それぞれの意見をリストアップして共通点・相違点を明らかにする、④それぞれがどういう経緯でその意見に至ったのかを交流する、少なくとも前提としてこの四つのプロセスが必要です。ここまで来て初めてフリートーク、つまり「交流」や「議論」が始められるのです。

子どもたちに限らず、人は自分の意見がないとき、他人の意見に流されます。逆に自分自身の意見をもっているときには、他の人たちはどう考えているのだろうと気になり始めるものです。この「自分の意見をもつこと」と「他人の意見が気になること」が成立すると、それらを「比較してみたい」「対比してみたい」「対照的に考えてみたい」と思うようになります。ここまで来て初めて課題に対する〈当事者意識〉が生まれるのです。

〈当事者意識〉のことを英語では「センス・オブ・オーナーシップ」(sense of ownership)と言いますが、「交流」や「議論」というものは、参加する個々人がその交流・議論の「オーナー」にならないことには「参加している」とは言えないのです。自分が「オーナーである」と意識できるような意見をもって初めて、自分がその交流・議論の「オーナー」であると意識され、その課題の「オーナー」であるとも意識できるものなのです。「主体的な対話」とはそうしたものではないでしょうか。

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