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自分を壊してくれるもの

漱石や鷗外を一冊も読んだことがないという教師は、いま、何割くらいいるんだろう。下手をすると、5割ではまったくきかないのではないだろうか。

藤村や花袋なら1割を切るだろう。幸田露伴は1%を切るだろうな。有島ならどうだろうか。露伴よりは少しは多いかもしれない。

スタンダールやドストエフスキーならどうだろう。

マルクスやフロイトやフッサールやハイデガーの解説書ならどうだろう。そもそも学生時代に「デリダにかぶれる」みたいな、かつて当然のように誰もが通った「かぶれ」というイニシエーションを経験しているんだろうか。

大学生には必ず読まなくちゃいけないと脅迫されているように感じられる書物というものがかつてはあったものだが、そういう雰囲気はなくなってしまっているのだろうな。

でも、例えば「坊ちゃん」や「二十四の瞳」を読んだことのない人間が教師になっていいんだろうか……。

芥川龍之介の「藪の中」を読まずして、アクティブ・ラーニングやファシリテーションなんて語れるんだろうか……。

別に野間宏や梅崎春生や三島由紀夫や武田泰淳や大岡昇平や遠藤周作や吉行淳之介や……は読まなくていいと思うけど、漱石と鷗外は3冊くらいずつは読んでいる人に教師になって欲しいなあ。

「枕草子」や「徒然草」が教科書に載っているように、時代が変わっても一応読まなくちゃいけない本ってのはあるんじゃないかなあ…。

内田樹読んでるうちにレヴィナスを読みたくなったとか、村上春樹読んでたらフィッツジェラルドを読んでみたくなったとか、そういうことってないのかなあ……。

なんだか、中学・高校の国語の先生でも、漱石・鷗外を一冊も読んだことがないって人がいるような気がしてきたなあ……。

全然世代じゃないのに、取り敢えずビートルズは聴いてみなくちゃとか、黒澤の「生きる」は見てみなくちゃとか、そんな感じで聞いたり見たりってことからいろんなことが始まった実感があるけどなあ……。

いやいや、堀は古い。時代が変わったのだ。そういうものではなく、新しい「大事なもの」ができたのだ。それならそれでいい。でも、それなら、何が「大事なもの」になったのか教えて欲しいなあ。僕がここに挙げているのは、なんというか「自分を壊してくれるもの」という意味合いなんだけどなあ。それが若者の生活になくなってきている。そういう意味なんだけどなあ。

そういう自分を倒壊させてくれる触媒みたいなものがなくなってる気がするのだけれど……。そしてそれが教育界にいろんな不利益を創り出してる気がするんだけれど……。自分を壊すものが、実生活上の恋愛とか誰かの死とかしかないとしたら、そりゃ世界が狭くもなるし、精神的に弱くもなっちゃうよね。


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