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おもしろがる

「学級経営」という言葉があります。

「学級づくり」という言葉もあります。

「学級経営」という言葉を使うとき、僕らの中には「ちゃんとさせること」が含意されているように思います。学級組織とか、当番活動とか、生活指導とか、朝・帰り学活のプログラムとか、この行事で何を学ばせるかとか、学級経営上の様々な要素を組み合わせて、年度計画に基づいた意図的でシステマティックな運営が目指される、そんな印象のある言葉です。これに対して、「学級づくり」には、どこか創造的な匂いがします。「学級を作る」というよりは、「学級を創る」というニュアンスが僕には感じられます。そこには意図的・計画的な営みばかりではなく、予想外のハプニングさえ活かそうとする心の余裕をもつような、どこかハプニングを歓迎するような、そんなニュアンスを感じます。

前者においては教師は一つ一つの仕事をきちんとこなさなければならないイメージがありますし、後者には教師が懐深く、何事も「おもしろがれる」資質が必要とされるようにも感じています。前者では意図的・計画的な営みからはずれる子は我慢させ矯正してみんなに合わせるか、それができないなら排除される。後者では支援を要する子の動きにさえ担任がおもしろがって、結果的に包含することができる。そんなイメージです。

昨今、意図的・計画的な教育課程だの、PDCAだのと理屈をつけて、硬直化した学校教育が蔓延し始めています。それはちょうど、通知表の行動評定にあるような無条件に良きことと認められているような項目を理想に掲げ、それにいかに近づけるかを目指すような営みです。そしてそのことに誰も疑問を抱かなくなってきているです。なぜそうなるのかと言えば、それは、多くの教師がハプニングを怖れているからなのだと僕は解釈しています。変化しないこと、ハプニングが起こらないことが最も楽で、安全で、安心だからです。しかし、子どもを相手にしているのに変化しないことを求めるなんて、それは教育という営みの根幹をはずしているのではないか。ハプニングを起こさない子どもなど子どもではありません。子どもとはハプニングを起こす存在なのです。思いついたおもしろいことを、実行してこそ子どもなのです。

教室はハプニングの起こるところです。ハプニング性にこそ本質があります。教育活動を「計画」の中に閉じ込めようとする発想は、ハプニングを極力排除しようとする発想です。しかし、それは背理なのです。そんな発想一辺倒では、教室は活力を失ってしまいます。そこでどうバランスをとるかが問われるのです。そこに教師の個性が表れます。

僕が失敗して落ち込んでいる若者によくかける言葉があります。

「失敗する人と失敗しない人の違いってわかる?」

若者に声をかける。

「なんですか?」

「失敗する人は、この方法は成功すると思って臨む。だからうまくいかないと落ち込むことになる。でも、失敗しない人は、この方法は実験だと思って臨む。実験には成功も失敗もない。ただ結果があるだけだ。うまくいくという結果、うまくいかないという結果、どちらが出ても一喜一憂したりしない。その結果を踏まえて次を考えるだけだ。失敗しない人ってのは、成功する人のことではなく、失敗を失敗だと感じない人のことなんだ」

この言葉をいったいどれだけの若者に投げかけたでしょうか。そして自分自身に対しても、「いまのお前はどうだ?」と何度問いかけたか知れません。

学級づくりとは〈フィールドワーク〉なのです。荒れた子も、おとなしい子も、支援を要する子も、興味をもって、おもしろがって実験を繰り返す場なのです。そんな中から幾つかはまる手立てが出てきます。手応えのある手立てが見つかります。それが有効な手立てとして、教師の「武器」となっていくのです。

〈フィールドワーク〉を成功させるカギは、教師が子どもを「おもしろがれる」か、子ども集団を「おもしろがれる」か、それだけだと思っています。

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