世界に開かれた〈問い〉
もしもあなたが読書を通じて力量形成を図りたいと本気で思っているのなら、何より大切なのは「情報読書」をやめることだ。そういう読書があっても良いけれど、少なくとも、力量形成の読書の中心的な営みはそこにはない。
教師の読書はそのほとんどが「情報読書」だ。知識を得るため、ネタを得るため、実践手法を得るため、見方を得るため、考え方を得るため……すべて情報を得ることを目的とした読書である。情報収集の方向、実践研究の方向を一つに絞り込もうとする愚かな人たちも少なくない。筑波系実践研究だけ、法則化関連書籍だけ、野口芳宏だけ、菊池省三だけ、PA系関連だけ、ファシリテーション関連だけ、そしていま、アクティブ・ラーニング系だけという新しい読書傾向の教師たちが生まれようとしている。〈解答〉を求める読書をしている何よりの証拠だ。さまざまな実践手法に同時に触れることこそが、世界への〈問い〉に開かれた態度に、思考の触発につながるに決まっているのに……。こういう読書傾向を示す教師は、まず間違いなく力量形成に失敗する。自分では力量がついてきていると思うし、その手応えも確かに感じることにはなるのだが、その実、視野の狭い、教育観・授業観の狭い、いわば「おたく教師」になっていくだけだ。そういう教師は、予想外・想定外の出来事に極めて弱くなってしまう。そうした力量が力量として自分に実感されるのはせいぜい三十代までだ。四十代になって責任を負い、他人を動かす仕事に着手した途端に、他人の発想が理解できない、他人の仕事の作法が理解できないと、怒りを覚えたり精神のバランスを失ったりしていくことになる。そしてそれは決して他人が悪いからなのではなく、自分の世界観が狭いからなのである。
もっと言うなら、本気で自分の教師としての力量を高めたいと考えているのなら、実は僕は教育書を読まない方が良いとさえ考えている。教育書ライターの僕が言うのも何なのだが、教師が教育書を読むとどうしても「情報読書」にしかならない。そこには自分の仕事に直結する内容しか書かれていないからだ。しかも、教育書によって与えられる〈問い〉は、多くの場合、世界に開かれた〈問い〉ではなく、学校教育に閉じられた〈問い〉しかもたらさない。しかし、教育現場で新しい発想でダイナミックな実践をしようと思えば、学校教育を外から眺める視座がとても大切なのだ。教育現場以外にある問題意識と同じ質の問題意識が学校現場にもあるのではないか、教育現場以外で問題視されている構造が学校現場にもないか、こうした学校教育を〈相対化する眼差し〉をもったとき、自分が毎日を過ごしている学校現場も、自分が毎日接している子どもたちの姿もまったく別のものに見えてくる。こうした学校教育を〈相対化する眼差し〉をもってこそ、実は教育書も相対化しながら読めるようになるのである。学校現場に閉じられた世界観で学校現場に閉じられた世界観を読んでも、それはN極とN極のごとく反発し合うか、お互いの傷を舐め合って合致するかにしかならない。