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道徳授業の構え

私は中学校の国語教師です。国語の素養は割と持ち合わせています。文章も割とわかりやすく書くことができますし、明快に話すことも不得意ではありません。他人が言っていることを過不足なく理解することもできますし、本も年間に数百冊程度は読みます。中学校の国語教師ですから、授業は基本的に国語科の授業しかしません。

そんな私にも得意としている教材と不得意としている教材があります。そしてそれは自分が授業をしていて楽しい教材とそうでない教材とも重なります。前者は私自身の専門(文学教育)とリンクしている教材であることが多く、よく教材研究もし、自分で「この教材のことをよくわかっている」と確信できる教材です。後者は自分の専門とはちょっと遠く、それ故に教材研究も楽しいと感じられない、そんな教材が多いのが現実です。自分の授業がなんとなく機能し切っておらず、生徒たちに申し訳なく思っています。

さて、教科道徳が始まって数年が経過しました。年間三十五時間とはいえ、私たちは学級担任として自分の授業を受けることを子どもたちに強いています。しかも人としての生き方、人としてどう生きるべきかを扱う授業です。学校でそれを習うということは、おそらく子どもたちの人生にそれなりに影響を与えることになります。指導書どおりの授業や係から提案された指導案をなぞるだけの授業はおそらく、私の不得意分野の国語授業と同じように「なんとなく機能しない授業」になっていきます。「なんとなく機能しない授業」が年間三十五時間続いているとしたら……。考えるだけでもゾッとします。

道徳の授業が「なんとなく機能しない授業」になってしまうのは、教師が〈当事者意識〉をもてないことに起因しています。教科書教材の設定や登場人物が自分からは遠いものに思えてしまう。どうも入り込めない。そんな状態です。そしてそれが、授業に対する教師の〈本気度〉を下げます。教師が本気になり切れない授業を強制的に受けさせられる子どもたちは悲劇です。そんな授業が機能するはずもありません。

授業を機能させるには教師が〈当事者意識〉をもつことが必要です。〈当事者意識〉には二つの方向性があって、一つは子どもたちに対する〈当事者意識〉、つまり、自分はこの子たちを育てなければならない、成長させなければならない、そうした子どもたちの方を向いた〈当事者意識〉のことです。これは教師のだれもがもっています。しかし、もう一つ、教師が授業を機能させるには教材に対する〈当事者意識〉というものが必要です。私はこの教材が好きだ、私はこの教材をよく理解している、私はこの教材の価値を子どもたちに絶対に伝えたいと思っている、そうした〈当事者意識〉です。教科書道徳の授業では正直なところ、これがなかなかもちづらい。そうした現実があります。

冒頭で国語の授業においても私が得意とする教材とそうでない教材とがあると述べました。しかし、私は不得意な教材であったとしても国語の授業ならばそれなりに機能させることができます。もちろん不得意な教材であっても(或いは、不得意な教材であるからこそ)なんとか機能させようと教材研究を欠かさないという私の努力がそれをもたらしている側面はあります。しかしそれよりも重要なのは、私の得意分野の授業があるからこそ、不得意分野の授業であっても子どもたちに「この先生の授業は聞くべきだ」という姿勢を担保しているのだということです。おそらく私の不得意分野の授業は、得意分野の授業の効果として余韻的に機能させられている。私はそんな認識をもっています。

小学校教師にも苦手な教科があるはずです。特に実技系教科や国語・理科・社会といった教科には、どうしても不得意とする人が多い傾向があります。それでもなんとか授業としてそれなりに機能させているのは、それぞれの小学校教師に得意な教科が幾つかあって、その教科でおもしろく興味深い授業が展開できているからなのではないか。要するに、やはり得意分野が不得意分野の機能性を余韻的に高めているのです。

私は道徳の授業も同じ構造で機能させるのが現実的なのではないかと考えています。教科書教材がどこか遠く感じられ、〈当事者意識〉をもつことができない。それが三十五時間続いたらおそらくその教師の道徳授業は機能しません。それが長く続けば、次第に子どもたちは道徳をおもしろくないもの、苦痛なものと感じるようになるでしょう。そうなったとしたら、教育上の悪影響さえ出るかもしれません。「やらない方がいいもの」になってしまいます。それではもう、教育活動としては破綻しています。

私はすべての教師が、自分が〈当事者意識〉をもって「本気」になれる授業を年間にどれだけ開発できるか、そこに一年間の道徳授業が機能するか否かのポイントがあると考えています。私の感覚では取り敢えず五時間。五時間の〈当事者意識〉をもった授業が展開されれば、なんとか三十五時間の機能性を担保できるのではないか。そう考えてもいます。この五時間の開発にすべての教師は血眼になって取り組まなければならない。そう考えているわけです。

毎年五時間の授業に高い機能性を発揮させる。おそらくその状態に至るまでには、人によっては数年を要するだろうと思われます。しかし、年間五時間の機能性を安定的に発揮できるようになれば、おそらく「道徳授業づくりのサイクル」のようなものが感覚的に得られるはずです。そうなったとき、その五時間を八時間に、十時間に、十二時間にと増やしていくことを考えれば良いのです。現実的には、取り敢えず年間五時間において自分の〈当事者意識〉を自分自身でつくることが急務である。私はそう考えています。

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