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時間の論議と質の論議

働き方改革。教員で言えば、残業を減らすことも、部活動の負担が減ることも基本的には良いことだろう。僕も別に反対ではない。

ただ、一つだけ懸念するのは、教員に限らず「働き方改革」と称されるものが、労働を「時間」で考えるのみで「質」が問われていないことだ。

例えば、僕は授業のワークシートを1枚5分程度でつくる。保護者向けプリントは1枚10分弱といったところだ。頭の中にワークシートのパターンが幾つかあって、それをもとに多少の応用をして作るだけだ。しかも、ワークシートに記される生徒たちへの指導言も試験問題の問題文で何をどう言えば良いか、何をどう言うべきかが頭に入っているので迷うということがない。保護者向けプリントも公文書の様式から時候の挨拶、必要事項の記し方まで頭に入っているから迷わない。できればすぐに教頭に渡して、何月何日の配付文書ですから何日の何時間目の空き時間に修正・印刷をするのでお願いしますと伝える。この手の配慮こそが実は仕事の効率を高めるのである。もしもそれまでに教頭のチェックが終わらなかったら相手が管理職であろうと怒る。「充分な時間があったでしょ」と。だから教頭もそれまでに必ずチェックを終えてくれるようになる。修正して印刷するのにも10分とかからない。学校規模にもよるが、文書1枚なら全家庭配付文書でも15分くらいだろう。

こういう人間の8時間と、ワークシートづくりに1時間かかって、まわりにミスを指摘されて直しまくり、保護者向け文書の時候の挨拶を何にしようかとネットで調べて10分、その後も一言一言立ち止まって考え……なんていう人間の8時間とは同価値なのだろうか。すべての人間の「労働時間の価値」は同じなのか。それが大きく疑問なのだ。そういう人間は残業してでも仕事を完成させて帰るのがあたりまえではないか。誰のせいでもない。時間がかかっているのは本人のせいなのである。実はそういう人は仕事が遅く、周りへの提案自体が遅いために周りの時間まで奪っているのである。しかも周りは上司でもないのにその人の仕事までチェックしなければならないから、時間も気も遣うことになる。これが現実なのである。

入院したときに造影剤の注射を一人の看護師に6回ミスられたことがある。若い看護師だったので4回目までは笑っていたが、さすがに6回目であなたには無理なんじゃないかな…と言って代わってもらったことがある。ベテラン看護師は若い看護師のミスを謝罪し、もちろん一度ですんなりと成功させた。この二人の看護師の労働時間の価値が同じであるはずがないではないか。

もちろん、勤務時間外の「時間の価値」は誰もが同じと考えて良いだろう。しかし、時間外時間価値が同じだからといって、労働時間を一律固定することは、実は能力の高い人間、時間の使い方のうまい人間が、能力の低い人間、時間の使い方が下手な人間の仕事をこれまで以上にかぶることを意味するのである。しかも能力の高い人間は同じ仕事に「付加価値」までつけられるが、そうでない人間にそんなことはできない。しかも能力のある側が若く、能力のない側がベテランの主任なんていうことさえざらだ。日本の職場はそういう関係のなかでもそこそこ和気あいあいにやってきたのである。能力の低い人間の労働時間を8時間にするなら、能力の高い人間の労働時間をもっと減らすか、休憩時間を増やすべきである(給与格差をつけるという議論もあるだろうが、教員に関しては僕はその議論に反対である。他人に対して総合的にかかわる職業に生活の安定していない人間を就かせてはならない。その意味で保育も介護も大きく賃上げすべきだ)。

システム改変をするなら、こういうことをちゃんと詰めて欲しい。

「働き方改革」と称される取り組み大いに結構だが、「時間の質」「労働の質」を高めろとのプレッシャーとともに提案して欲しい。そう感じざるを得ない今日この頃である。

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