やはり必要なこと
学級も授業もうまくいかない。子どもたちとの関係もうまくいかない。保護者からのクレームも日常茶飯だ。どこかで歯車が狂ってしまった。
去年まではそれなりにうまくやってきたのに……。それなりに自信ももっていたのに……。そんなプライドがよけいに自分を落ち込ませる。
教師を続けていれば、だれもが経験することだ。
「毎日、いまできることを一つ一つ積み重ねて行くことだな。それ以外にできることはないんだ。絶対にやってはいけないのは諦めてしまうことだ。もしかしたら確かに今年度はこんな状態が三月まで続くのかもしれない。いま以上に苦しむこともあるのかもしれない。でもな、きっと五年後のおまえはこう考えてるよ。『ああ、子どもたちとうまくいかなかったあの一年がいまの自分をつくっているなあ…』『ああ、あの保護者からの執拗なクレームが僕を育ててくれたんだなあ…』『ああ、あの一年で、学級経営にも授業運営にも手を抜いちゃいけないんだってことを学んだんだなあ…』『ああ、あれは結局、自分にとって必要な経験だったんだなあ…』。そういう五年後を見ながら、もう少し頑張ってみようや」
これまでだって、いくつも「人生の危機」を乗り越えてきたはずなのだ。ママに叱られたとき、あの娘に振られたとき、大学や教採に落ちたとき、祖父母が亡くなったとき、確かに世界は絶望的に見えた。でも、すべてをちゃんと乗り越えてきたじゃないか。いま起きている出来事も絶望的なんかじゃない。五年後の自分が振り返るときの良い経験にしようじゃないか。そう考えて、もう少し頑張ってみないか……。
逆境に置かれたとき、人は「いま」に縛られる。いまこの瞬間のことしか考えられなくなる。そして、いまこの瞬間に絶望する。明日のことなど考えられなくなる。もう未来がないように思えてしまう。でも、逆境に置かれたときこそ、少し遠くに目を馳せてみるべきなのだ。五年後くらいを想像し、想定してみるべきなのである。いまこの瞬間を相対化してみるべきなのである。僕はこうした考え方を「明後日(あさって)の思想」と読んでいる。今日でも、明日でもなく、明後日に目を向けてみるのだ。
それでもダメだ、絶望的だというのであれば、逃げればいい。こだわりを捨てて流されてみるればいい。恥も外聞も捨てて逃げてみる、そういうことだって、長い目で見れば経験なのだ。だれだって究極的には他人よりも自分が大事なのだ。そうでないというのはキレイゴトだ。精神を病んでまで、死にたいと思ってまで、他人に迷惑をかけないことを優先する必要はない。
精神を病みそうならば休めばいい。死にたいなんて考えるようになったら退職したほうがいい。そんな無責任なことはできないとか、同僚に迷惑をかけたくないとか、子どもたちに申し訳ないとか、親に顔向けできないとか、そんなことはどうでもいいことなのだ。確かに、教職は尊い仕事だし、この安定した職業に就いたことを両親は喜んでくれたかもしれない。でも、命を賭けるほどの仕事ではない。命だけは賭けてはいけない。教職は確かに尊い仕事だが、精神を病んだり、命を賭けてまでしがみつくべき仕事ではない。
第四章でも述べたが、僕は同僚を何人か、自殺で失っている。友人も失っている。人は自ら死を選ぶことがあるということを、五○年近い人生のなかで何度も経験させられた。その悲しみも味わわされた。遺された家族の姿も何度も見てきた。あの姿はあってはいけないものだと思う。
「たかが仕事ごときで死んではいけない」
どこかにそういう気持ちをもって生きることは、やはり必要なのだと思う。