後悔はない
一 格好づけの壁
学生時代から自分は国語の実践研究で生きていこうと決めていた。だから若い頃は研究授業ばかりしていた。採用されたのが一九九一年だから、もう四半世紀も前のことだ。大きな研究授業は二学期にある。たいていは十月か十一月だ。夏休みはそのための教材研究にあてていた。
当時、僕は学習指導案をB4判で百枚以上作ることに決めていた。本編二十枚、資料編八十枚を目処としていた。学生時代の師匠は「量も質だ!」が口癖だった。「どうせ俺たちゃ平々凡々教師だ。質なんて担保できない。質が担保できないのなら量くらいはだれにも負けないものを提出しようじゃないか……」ともよく言っていた。僕はそんな言葉を真正面から受け止めるような青年教師だった。当時の僕にとって、夏休みは指導案の資料編づくりに取り組める大切な大切な時間として意識されていた。
九一年は「少年の日の思い出」(ヘルマン=ヘッセ)、九二年は「夏の葬列」(山川方夫)、九三年は「万葉・古今・新古今」、九四年は「走れメロス」、九五年は「一塁手の生還」(赤瀬川隼)だったと記憶している。九一年と九二年は実存主義文学を、九三年は品詞分解を、九四年と九五年は視点論をというように、自らに取り組むべき中心課題も課していた。数十冊の参考文献を繙きながら、一日十五時間くらいの時間を費やした(夏休みの前半は部活動の大会があったので、おそらくこういう過ごし方をしていたのは十五日間程度だったと思う)。
ところが、研究授業はどれもうまくいかなかった。教材研究をすればするほど、研究授業の本番はうまくいかない。当時の僕には、「教材研究で得たすべてを授業で扱ってはいけない」ということがわかっていなかった。若い教師が陥りがちの失敗だ。自分が知ったこと、自分が発見したことのすべてを子どもに教えたくなる。でも、若いとはいえ、国語教師が夏休みを費やして到達した境地に子どもを導こうなど無理な話である。いま考えると赤面するような馬鹿げたことを、当時は本気で考えていた。
おそらく、子どもに力量をつけるとか、子どもにより深い思考をさせるとかいうこと以上に、当時の僕は教材研究を頑張った自分、資料をたくさん作った自分に酔っていたのだ。子どもを育てること以上に、自分が格好をつけたかったのだと言ってもいい。いま思うと、当時の僕にはそうした構造が確かにあった。
二 十頁の壁
そんな生活を始めて七年目。僕は仲間たちと国語科授業づくりの同人誌を始めた。初任者研修で知り合った同期採用の仲間たちと始めたサークル活動も既に六年が経過していた。札幌市の中学校国語教師ばかり七人の、小さな小さなサークルだった。このサークル活動はメンバーを入れ替え、いまなお続いている。僕の肩書きとして筆頭に来る「『研究集団ことのは』代表」とはこのサークルのことである。
いまでこそ、「研究集団ことのは」のメンバーは四十数人を数え、東京や名古屋、大阪、富山に支部をもつほどになっているが、当時はたった七人しかいない、全員二十代の地方のサークルに過ぎなかった。いまは定例会も月に一度、四時間ほどを常としているが、当時の例会は土曜日の一三時に始まって、終わるのが朝方の四時、五時というか感じだった。いま思うと、我ながら「狂ってる」としか思えない(笑)。
とにかく、そんなサークルが、「そろそろ研究内容を発信してみよう」ということで始めたのが同人誌「礎石」だった。その創刊が九七年だったのだ。
この同人誌「礎石」の創刊号が、明治図書出版の江部満氏の目に留まることになる。僕には単著の依頼が来た。そしてサークルにも僕を編著者とするサークル共著の依頼が来た。夏休みに書くようにと締切は、秋に設定されていた。依頼が来たのは五月。僕は夏休みに一気に書いてしまおうと思っていた。書けるという自信もあった。二ヶ月間、あれこれと構想を練り続けた。夏休み前半の部活の大会も終わり、「さあ、いよいよ書き始めるぞ」と僕はワープロに向かった。
ところが、である。
十頁ほどはスムーズに進むのだが、十頁くらい進むとこれではダメだと思われてくる。また、最初からやり直す。でも、また十頁ほど進むと、これではダメだと別のアイディアが頭をもたげてくる。もう一度、最初からやり直し。いったい何日かかったのか、もう記憶にない。いずれにしても、この繰り返しをしているうちに僕は書くのがいやになってくる。二、三日休んでは、こんなことではいけないとまた始める。でも、やはり十頁の壁はやってくる。そんなこんなで、とうとう夏休みが終わってしまった。
いま考えると、おそらくこれも、研究授業の教材研究と同じ、悪しき構造にはまっていたのだと思う。僕は考えていることのすべてを表現しようとした。読者にとって有益な本を書くこと以上に、自分が格好をつけることを優先したのだろうと思う。オレはこんなことまで考えているんだぜ。そんな思いを間接的に表現しようとしていたのだろうと思う。そこからは袋小路。結局、共著が出たのは四年後、単著が出たのは五年後だった。
それから二十年以上が経過した。いま、僕の教材研究の時間は日常に埋もれている。文章を一度読めば授業像が浮かんで来るようになっている。今年、僕は一月から六月までの半年間で八冊の単著と、一冊の共著を書き上げた。あの夏休み、あの頃の格好つけたい自分との闘いがなかったら、きっと現在(いま)の僕はいない。
後悔はない。