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世の中はつかずはなれず隅田川

鈴木常吉が亡くなったとのこと…。合掌。

一日が終わり、人々が家路へと急ぐ頃、俺の一日は始まる。メニューはこれだけ──豚汁定食。ビール(大)。日本酒(二合)。焼酎(一杯)。酒類はお一人様三本(三杯)まで。あとは勝手に注文してくれりゃあ、できるもんなら作るよってのが俺の営業方針さ。営業時間は夜十二時から朝七時頃まで。人は「深夜食堂」って言ってるよ。客が来るかって? それがけっこう来るんだよ……。

テレビ版「深夜食堂」。小林薫演じるマスターのオープニングの台詞である。

鈴木常吉の味わい深い歌声に続いて、どこか寂しげなアコースティックギターに折り重なるように小林薫がおごそかに語りかけてくる。

映像は夜の新宿。ビル街。タクシーが走り過ぎ、パチンコ店や消費者金融、ファストフード、ドン・キホーテといった、この時代、人々の欲望を満たすのになくてはならないものどもの煌びやかなネオンが映し出される。そのネオンの向こうに、雲を纏った三日月が現れ、カメラが切り替わるとその月がアップされる。人々がどれだけ消費に明け暮れ、ビル街がどれだけその背を高くしようとも、月は悠久の時間にわたってその姿を変えることはない。おそらくこの月の姿が「深夜食堂」の在り方を象徴しているのだろう。その証拠に、月の映像はその後、「深夜食堂」の唯一の食べ物メニューである豚汁の仕込みへと移ってゆく。消費が如何に人々を翻弄しようとも、文明が如何に人々を打算に縛ろうとも、真に人々を繋ぎ、真に人々を生かしているのは「人情」であると……。人工的な世界にひっそりとたたずむ自然的なもの。それが「深夜食堂」の存在意義である。

思えば理想の教師とはこの「深夜食堂」のメニューみたいなものなのかもしれない。

教師の立ち居振る舞いの軸は「人情」に置かなくてはいけない。それもどろどろの人情やずぶずぶの人情ではなく、いわば、「豚汁定食」のように日常的で、食べたいと思えばいつでもどこでも食べられ、そして人々の躰とともに心も温める。多くの食材が使われ、栄養もたっぷり。それでいて決していつもいつも食べたいというわけではない。おそらくは教師に必要とされる人情も、人々の日常に寄り添い、必要なときにそこにいて、子どもたちに栄養を与え、その心を温める、そんな人情なのである。

しかし大切なのは、それでいていつもそばにいて欲しいというわけではない、ということである。子どもが教師にいつもそばにいて欲しいと思うとしたら、それは異常事態だ。それは教師を信用しているとか信頼しているとかを越えて、教師に依存しているのである。「深夜食堂」が酒類を一人三本までとするのも、客が食堂に依存するのを避け、自分の足で自分の生活を歩むようにとの配慮だろう。いわば、店と客との間に「ちょうど良い距離感」をつくるための手立て、それがこの注意書きの意味なのだと思う。人情は人々を近づけ、人々に心地よさをもたらすけれども、そこには適度な距離が必要で、近すぎる人情、依存する関係は人を駄目にする。一方が駄目になり身を崩したとしても、双方が駄目になり駄目な関係を続けたとしても、いずれにしても依存がもたらすのは「破綻」だ。

世の中はつかずはなれず隅田川

オダギリ・ジョー演じる謎の客、カタギリが第一話で物語の〆に詠む句である。

ところが、「人情」だけで教師ができるわけではない。確かに教師の仕事は「人情」が軸となるけれども、それはあくまで仕事の軸、つまり矜持であって、日常的には子どもたちそれぞれの希望に沿わなければならない。「深夜食堂」のマスターだって「勝手に注文してくれりゃあ、できるもんなら作るよ」という営業方針を採れるのは、客が求めたメニューを作る腕をもっているからこそなのである。腕、つまり「技術」である。「技術」のない料理人にこの営業方針は採れない。そしてそれと同様に、「技術」のない教師に子どもたちの希望は叶えられないのだ。

教育界には、教師は「人間性」である、「人間性」さえ高ければその他は主従の従であるという信仰がいまだに巣くっている。もちろん、それは一面の真理であり、「技術」は「人情」を軸に実践を重ねるうちに後で付いてくる性質をもつ。しかし、それは料理人が修業するように、意識的に技術を身につけようとした者にのみ言えることであって、「人情」だけを重視し、「心」だけを大切にして日常に埋没する教師には決して到達し得ない境地である。「技術が後から付いてくる」は、「人情」を軸に「技術」を意識的に身につけようと努力した者だけに与えられる特権なのだ。

しかも技術には、無駄遣いしない、納得できないときは使わないという抑制も必要だ。「深夜食堂」第一話に山中崇演じるチンピラがマスターの営業方針にかこつけて、「エスカルゴをつくれ」「ツバメの巣のスープをつくれ」と迫る場面がある。これをマスターは毅然と「そんな高級なものは置いてない」と退け、松重豊演じるヤクザの親分がその姿に意気に感じて常連になるというくだりがある。「技術」を意識的に身につける同時に、身につけた「技術」を意識的に使う、納得した時にのみ使うという姿勢も必要なのである。「技術」を「意識的に使う」とは、同時に「意識的に使わないことがある」ということでもある。この境地に到達するには、私の経験上、二十年はかかると感じている。

AL型授業の技術とは、まさにそのような技術の代表なのかもしれない。

思ひで/鈴木常吉(「深夜食堂」主題歌) を聴きながら……
2017年9月1日 二学期六日目を終えた自宅書斎にて 堀 裕 嗣

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