見出し画像

仕事と実践

私の仕事術はすべて、「サボる」ために生まれてきた──そう言って良いだろうと思う。特に公務上の仕事術に関しては間違いなくそうだ。

私は基本的に仕事が嫌いである。仕事などしているくらいなら、自分のやりたいことに時間を使いたい。時間のすべてが自分のものになり、読書や思索に耽って毎日を過ごせるならどんなに幸せだろう。若い頃からそう思い続けてきた。この思いはいまもまったく変わらない。しかしだからと言って、管理職や同僚に文句を言われながらお荷物扱いされるのも自分のプライドが許さない。となれば、仕事を効率的に仕上げ、まずまずの成果を出していくという以外に道はない。それが結果的に趣味への耽溺の時間を生み出す。こういうのを一般に「サボる」と言わないことは承知しているが、私の中ではあくまでこれは「サボる」と表現されるべき現象である。読書や思索が何か高尚なものであり、公務に役立つものだと私はまったく感じていない。

これまで「仕事」という言葉を使ってきた。この語用には実は意図がある。本稿では、この意図するものを軸に話を進めていきたいと思う。

1 仕事と実践

私たちが日々学校で取り組んでいる仕事には、「仕事」と呼ばれるべきものと「実践」と呼ばれるべきものとがある。「仕事」とは公務上のやらなければならないこと、「実践」とは自分がやるべきことである。前者は私でなくてもできる。代えが利く。誰がやっても結果・成果にそう変わりがない。人によって時間がかかるかからないとか、作成された文書がわかりやすいわかりにくいとか、多少の違いはあるかもしれないが、まあ誰がやってもぼちぼちこなせる、そうしたものを指す。一方、後者は他ならぬ私でなくてはできないものを指す。例えばちょうどいま、学習指導要領の改訂に伴う教育課程の大きな改変の時期だが、これを学校の実態、子どもの実態、地域の実態に応じて本格的に創造しようということになれば、それは「実践」となるだろう。また、日常的になぜか波長が合うと感じるある生徒が私を頼ってきたとしよう。本人にとっては深刻な悩みであり、その方向性を示唆する教師としてその生徒によって自分が選ばれた。他の人には任せられない。自分が時間と労力を費やす以外にない。自分がその子を救えるとも限らないが、少なくとも他の教師にはその可能性がない。このとき、その生徒への指導・援助は私の「実践」となる。「仕事」とは公務上のやらなければならないこと、「実践」とは自分がやるべきことであるとする私のニュアンスが少しは伝わっただろうか。

しかし勘違いしないで欲しいのは、学校の実態、子どもの実態、地域の実態に即した教育課程を編成すればそれが「実践」になるのかと言うと、そうではないということである。多くの教務主任は「仕事」として教育課程を編成している。教委が示した基準に則り管理職の助言を聞いたうえで、単なる数字合わせをしているに過ぎない。子どもの実態も地域の実態もそれに適合するように作文しているだけだ。職員にアンケートを取るくらいのことはあるかもしれないが、それも結論ありきだから最初からアイディアを採用するつもりも悩みに対応するつもりもない。一般に事務仕事というものは、①前年度の文書の日付と誤字を修正して文書をつくるか、②行政の基準に則った文書をつくるか、③職員からアンケートを取って最大公約数をまとめて文書をつくるか、この三種類くらいしかない。もちろんどれも「仕事」であって「実践」ではない。多くの教育課程の編成はこの三つの手法に毛の生えた程度のものに過ぎない。

小学校は今年度から、中学校では次年度からいわゆる教科道徳が始まるわけだが、多くの学校が評価の在り方から三十五時間の在り方を考えようとしている。①評価をしなければならない、②評価しやすいようにポートフォリオをつくろう、③毎時間ワークシートが必要だ、④毎時間つくるのは大変だから様式を全校で統一しよう、⑤そのためには発問を三つ以下にしよう、⑥指導案もこの様式に合うようにつくることにしよう、こんなふうに発想が進む。道徳の授業を子どもたちに深く機能させるには何をすべきか、どのようにすべきかという発想がどこにもない。授業の在り方として本末転倒も甚だしい。しかし、だれもそれに疑問を抱かない。道徳の授業づくりを「仕事」として捉え、だれ一人「実践」の一貫とは捉えていないからである。

ある生徒が自分を頼ってきた。本人にとっては深刻である。自分一人では限界がある。チームの時代だ。よし、学年の先生、生徒指導部、管理職、保護者、場合によっては関係機関と連携しながらチームで取り組んでいこう。こう考える時点でもうそれは「実践」ではない。多くの場合、その生徒は「○○先生だから相談したのに、なんか大事になってしまった」と感じる。生徒も馬鹿じゃないからその対応を表立って批判することはない。しかし、どんなに信頼できそうと感じた教師でもやはりこういう対応なのだ、教師とは、学校とはそういうものなのだ、そう感じることになる。静かに信頼関係は破綻へと向かっていく。教師が生徒に「実践」としてではなく、「仕事」として対応したからだ。

いま三つの例を挙げたが、どれも時代の求める教育改革・学校改革に鑑みれば「正しいこと」である。私も会議では意見を言うけれど、それ以上に抵抗したり我を張ったりはしない。「ああ、『仕事』として対応すれば良いのだな……」と、効率性を旨に取り組むようになるだけである。思えば昨今の教育改革・学校改革は、教師から「実践」を取り上げ、すべての事案にあくまで「仕事」として取り組むことを求めているのかもしれない。そして教師の側もまた、教職に「ブラック」を叫び、「『実践』などしない。『仕事』として取り組ませろ」と声高に叫んでいるだけなのかもしれない。

2 勤務時間と勤務時間外

この夏、拙著『教師の仕事術10の原理・100の原則』(明治図書)がけっこうな売れ行きを示した。「働き方改革」の流行、教師の「ブラック残業」を指摘する世論(「世論」と呼ぶにはあくまで一部に過ぎないが)が拙著の売れ行きを後押ししてくれたのだろう。この原稿もそれがもとでの依頼だと思う。仕事の成果が新たな仕事を呼び込んでくれる。有り難いことである。

さて、拙著を読んだ方々からかなりたくさんの反応をいただいた。肯定的な反応もあれば否定的な反応もあるわけだが、いずれにしても多くの反応に見られたのが、私をストイックだと評価するものである。

「自分は堀先生のようにストイックになれない」
「これだけ濃密な勤務時間の過ごし方をすれば成果も上がるのだろうなあ」

そんな反応である。著者としては苦笑せざるを得なかった。私と近い間柄にある方々はみな口をそろえて言うと思うが、私はいわゆる「ストイック」とは真逆の人間である。いいかげんだし、気分屋だし、我が儘で気に入らないことについてはてこでも動かない、そんな性格である。

確かにやり始めたら仕事は早い。一つの文書づくりに十分以上かかることはまずないし、テストの採点も早い。通知表所見や指導要録でも一時間はかからない。それは確かである。手帳にかなり綿密に記録していることも確かだし、隙間時間をうまく利用しているのも確かである。しかし考えてみて欲しい。文書など一週間に何枚つくるだろう。テストの採点だって一ヶ月に一度あるかないかだ。隙間時間で行うほどの連絡・調整や生徒たちとの相談活動も毎日あるわけではない。むしろない日の方が多いのではないか。私は一つ一つの仕事が早い分、時間をもてあましていて、会議のない放課後は本を読んでいたり生徒とだらだらと雑談をしていたりといった時間の使い方をする方が圧倒的に多い。

むしろ私がストイックなのは勤務時間外である。退勤して学校を出ると、私はほぼまっすぐ帰宅する。そして幾つかのルーティンをこなした(本を読んで気になった箇所を一太郎に打ち込んだり、珈琲豆を碾いてゆっくりと淹れるといった作業)後は書斎に引きこもる。①原稿を書くか、②講座や授業用のPPTをつくるか、③教材研究をするか、④本を読むか、⑤音楽を聴くかのいずれかを始める。食事や風呂の時間はあるとはいえ、その作業がだいたい十二時まで続く。次の日が休みならそのまま朝方までやっている。平日に十二時でやめるのは次の日に支障が出るからに過ぎない。本音で言えば、明日八時に出勤しなければならないなんて、私にとっては甚だ迷惑な話である。そしてこれらはすべて、私にしかできない「実践」と直接的につながっている。これらの作業は①授業、②学級経営、③生徒指導、④職員室の人間関係対応、⑤時事問題等々、学校教育に関する内容の多岐にわたる。多くの読者が学校にいるうちに教材研究や生徒への対応を考える時間をとっているのだろうが、私はそれらの時間を勤務時間の外に出してしまっているのだ。教師の労働を「ブラック」と表現するとすれば、実は私ほど「ブラック」に時間を使っている教師はそうそういないだろうと思う。ただ私の中で、それらの時間が「趣味」であり「道楽」として意識されているだけだ。その意味で、私にはこうした生活が「ブラック」だとも「苦」だとも感じられないだけである。

休日もセミナーと称して仲間たちとともに実践研究を交流し議論しているか、セミナーのない休日ならやはり書斎に閉じこもっているだけだ。夏休みや冬休みも多くは年休を取って、同じような生活を送る。晦日や元日でさえ同じようなものである。だから読者の皆さんは、決して私にはなれない。そもそもなる必要がない。私はいわば、「人間」としてよりよく生きること、豊かに生きることを捨てた人間である。私の提案のすべては、このような人間が、普通の人には不可能な膨大な時間と労力をかけて到達したものなのである。その意味で、拙著『教師の仕事術10の原理・100の原則』も、「私はこんな風に考えますけれど、皆さんにも何か参考になることがおありでしたら使ってみてください」というスタンス以上のものを私はもっていない。

おまけに最近の私は、自分の実践研究の成果を職員室に還元しない。もちろん生徒たちには還元する。しかし、職員室には還元しない。例えば、私は2018年になって四十本以上の道徳授業を開発した。うち十五本程度は生徒たちへの実践にもかけている。しかし、私はこれらの指導案を一本も作っていない。授業の開発はあくまでPPTをつくることで行われる。そのPPTも私の作った紙媒体の資料やワークシートも、決して学校サーバーには入れない。これらは私が勤務時間外に開発したものである。職員室で共有化する道理がない。私自身、少なくとも実践面においては他の人たちが開発したものを使ったことがないので、こうした考え方が私の中に定着している。文句を言われる筋合いはない。

もちろん、勤務時間内に行われている「仕事」に関する文書はすべてサーバーに入れる。夏休みであろうと冬休みであろうと、私は「実践研究」は年休を取って自宅で行う。長期休業中に出勤するときには、私の中で「サーバーに入れられるもの」しか作らない。これが私の基準である。

2017年度、私は教務部の道徳係だった。私が道徳の研究を進めていることを知っている校長は、教科道徳の準備を具体的に進めなければならない今年度、私に学校の道徳の教育課程を作って欲しいと思っていたらしい。しかし、私はそれを断り、生徒指導部を希望し、今年度は学年の生徒指導の仕事を担っている。簡単に言えば、私は自分の実践研究をこのまま進めていくことと、自分の道徳に関する考え方を職員室に分かち伝えながら学校全体に機能させることとを秤にかけ、後者には膨大な時間と労力がかかる、これは断るべきと判断したのである。

そもそも自分の道徳授業研究がまだ固まっていない。そんな状況で道徳研究をしたこともない人たちにその理念と手法を分かち伝えるなど不可能に近い。そこに時間を労力はかけられない。考えてもみて欲しい。各教委がなぜ、これほどまでに教科書のみを使って道徳授業を進めていくことにこだわるのか。それは学習指導要領上の理念と手法を素人に分かち伝えることが不可能だからに他ならない。それならばその理念と手法を最大公約数的に体現する道徳教科書を使うことを強制して、道徳授業を定着させてしまうのが現実的だと判断しているのである。つまりある種「妥協の産物」が教科書強制道徳なのだ。職員室で中心的に道徳のカリキュラムづくりを担うことは、これと同質の妥協なくして成立し得ない。私にその意志はない。

前頁に「おまけに最近の私は、自分の実践研究の成果を職員室に還元しない」と書いた。そう。このようなスタンスになったのは、「最近の私」なのである。理由は二つ。一つは、最近の学校改革が勤務を「時間」で測り始めていることへの抵抗である。これだけ教師の職務を「時間」で測るのならば、私も勤務時間外に開発したものは職員室の勤務時間内には還元しないと決めたのである。「時間」で縛ろうとすれば、「時間外」によって生まれた余剰能力は有効活用できなくなる。それを行政は知るべきだと私は思う。

そしてもう一つは、私自身の残された時間が少なくなってきたことによる。定年まであと八年である。他人のために膨大な労力を使えるような豊かな時間は、もう私には残されていない。生徒たちに機能させられること、生徒たちにちゃんと機能することだけに時間を使いたい。それには自分が直接的に関われる生徒たちだけに対象を絞るのが現実的なのである。「仕事」としてではなく、「実践」として教職を捉える世代の正直な気持ちである。

いいなと思ったら応援しよう!