詳細な読解
最近思うのだが、あれだけ敵視された国語の授業の「文学的な文章の詳細な読解」って、やっぱり必要だったんじゃないだろうか。国語科としての言語教育にはほとんど無意味だったけれど、人を「大人」にしていくための、けっこう大きな別の意味をもっていたのではないだろうか。最近の世の中の、特にネット上のあまりにも単純な単線思考を眺めていると、どうしてもそんな気がしてくるのだ。
あの「詳細な読解」は少なくとも人の行動の裏には心情があって理由があるということを教え続けていたのではないか。あの「詳細な読解」は少なくとも人の行動や心情は複雑であるということを手を変え品を変えて教え続けていたのではないか。あの「詳細な読解」は少なくとも他人の気持ちを安易に決めつけてはならない、想像に想像を重ねなければ理解できない、想像に想像を重ねてさえ理解できない部分も多いということを教え続けていたのではないか。
日本人が日本人としてまっとうに、まっとうにというよりも普通に育っていくためには、例えばちょいとひどいいたずらをしたくなる小ぎつねの心情を想像してみることや、猟銃の筒口から出る「青い煙」の象徴性をああでもないこうでもないと2時間議論し続けた結果として「結局結論出なかったね…」とか、議論のあとに先生のまとめを聞いて「どうしても納得できない」と食い下がるとかというような経験が必要なのではないか。それが言霊言語観の入り口に至るイニシエーションとして機能していたのではないか。
それが目的に応じて情報を読み取るなんていうことがもてはやされ、レポートを書くためにこの文章を読むだの、プレゼン作成の資料として複数の資料を比較して読むだのばかりするようになって、完全に道具言語観に堕してしまった。いまでは言語が道具であることを疑う若者を見つける方が難しくなってきている。言語が道具であるとすれば、その道具を用いる発話者は「動かない人」「変わらない人」、即ち「完成された人」ということになってしまう。
結果、Twitterの140字程度の文章の読解もままならないのに、自分は一端のものだということだけは信じて疑わない、ひどくバランスの悪い人間ばかりになってしまった。
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