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人は他人の誠実さに惹かれる?

誠実な人と淫らな人。あなたはどちらが好きだろうか。

一緒に仕事をするならとか一緒にいて安心するとか、よけいなことを考えてはいけない。単純にどちらが好きかという問題だ。どちらに惹かれるかと言い換えてもよい。多くの人が淫らな人であるはずだ。無能な淫らさはみんな嫌いだが、有能な淫らさはだれもが好む。

人は有能な人間の「淫らさ」に惹かれる。

誠実な人、一緒にいて安心する人、確かに大切かもしれない。しかし、誠実も安心もただそれだけである。それ以上にはならない。誠実と安心を掛け合わせても新たな価値は生まれない。ただ平坦な、起伏のない日常が生まれるだけである。そこに何らかの「淫らさ」が感じられるとき、人はその人に興味を抱く。

教師も同じである。ただ真面目一本やりの教師は、子どもから見ても保護者から見ても魅力がない。同僚から見ると、ときに迷惑でさえある。「真面目だけが取り得」という言葉があるが、これはあくまで「真面目」が取り得の一つだということであって、「真面目だけが取り得」の人には取り得がない。真面目だけで生きる人は真面目だけで生きているが故に周りに数多くの迷惑をかけている。真面目だからそれに気づかないだけだ。真面目でない人も迷惑をかけているが、その人が真面目でないことを周りも理解しているだけに許されてしまう。ときにはラブリーでさえある。真面目な人はそういう「淫らさ」を迷惑だと感じ、その淫らさをネガティヴに捉え、真面目に対峙してしまうことに周りに迷惑をかける。そのくらい許されるだろ……という周りの空気に水を差す。これがいけない。そしてそういう教師は確実に存在する。

もう一度、繰り返す。人は有能な人間の「淫らさ」に惹かれる。

大切なのは「有能な人間の」の部分である。正直に言えば、無能な人間は誠実な方が愛される。無能な人間の淫らさは周りにとって手がつけられなくて、迷惑この上ない。しかし、有能な人間に誠実を旨として生きられてしまうと、周りにいる者は自分の無能さと自分の淫らさとを突きつけられてしまい、落ち込むとか手立てがない。有能な人間の「淫らさ」が愛されるのは、周りに「完璧な人などいない」と安心感を与えるからだ。安心感を与える「淫らさ」が人を惹きつける。

例えば、職員室に不倫がばれてしまった女性教師がいるとしよう。この女性教師は誠実な人には支えられない。ある種の「淫らさ」を持ち、淫らな価値観をもっている人間にしか支えられない。そもそも不倫自体を絶対に許せないという心象ほ前提にしたら、この女性教師はただ職を辞すべきだという結論にしかならない。この女性教師かどんなに有能だったとしても、その有能さに今回の事案が有せ冠されてしまう。今回のことは若気の至りで、この女性教師がこれから多くの可能性を秘めていたとしても、その可能性は摘まれるしかないという結論に至る。しかし、世の中はそんなに一面的に判断できるものではない。

普通に恋愛し、普通に結婚するカップルにも、今後の生活の安定や相手のルックスといった損得勘定の打算はある。心ならずも不倫の恋愛に至った女性だって、その恋愛が不倫であり世の中では許されないことは百も承知なわけけで、損得勘定で言えば損であることも百も承知である。それでもその道に踏み込まざるをえなかった事情がある。世の中に「不倫」と呼ばれる「純愛」など数限りなくある。例えば、誠実一本やり、真面目一本やりの人間はこうした論理を理解しない。理解しないことによって、その人が立ち直れなくさせてしまう。他人に致命傷を与える動きをする。しかも、自分では良いことをしたと思っている。そういう誠実さを僕は誠実と思わない。

無能な人間は誠実であってよい。そもそも無能な人間は誠実を旨として生きたとしても、こうした事案で他人の人生に影響を与えるような立場に立たない。だから世間の価値基準に同化し、正義を代表するような発言をしていても、それほど周りに迷惑をかけない。しかし、人の上に立ち、他人の人生に影響を与える立場に立つ人間は、ある種の淫らさをも理解する「淫らさ」をもっていないと、他人に致命傷を与えておいてそれに気づかないなどという非人間的なことをしかねない。

言っておくが、教師は常に人の上に立ち、下手をすると他人の人生に致命傷を与えかねない立場にいる。大学を卒業し、教師となった瞬間からその立場になる。不倫の女性教師なら管理職や主任クラスの人間だけが考えれば良い話かもしれないが、この不倫女性教師のもう少しミニマムな事例なら、教室にはいっぱいあふれてはいないか。そんなとき、ただ「正しさ」で子どもたちを断罪してはいないか。教師はある種の淫らさをも理解する「淫らさ」をもっていた方がいい。

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