自己未来像
いかなる若手教師にも、年齢にかかわらず、必ず「自己未来像」があります。「自己未来像」とは、自分がどういう教師になりたいと考えているかという将来像のことです。
協同的な学級づくりを中心に取り組んでいく教師になりたい。授業研究に勤しみ、ゆくゆくは地域をリードする存在になりたい。行事を中心に特別活動で子どもたちを成長させる教師になりたい。教育相談活動を中心に子どもたちを包み込める教師になりたい。部活動で全国大会に出るようなチームをつくりたい。いわばその若者が教職を目指すことになった「軸」とでも言うべきもの、それが「自己未来像」です。
ところが、先輩教師の方はどうかと言うと、「自分と似た志向性をもつ若者」ばかりを可愛がる傾向があります。特別活動で学級づくりをしてきた教師は、学級づくりを得意とする若者ばかりを可愛がります。生活指導を中心に子どもと関わってきた教師は、そうした若者ばかりを取り立てて、授業研究好きの若者を「使えない」と断罪し、「生徒指導もできないくせに、何が研究だ!」と批判します。授業研究から教育課程づくりに興味を抱くという教員人生を歩んできた教師は、授業研究好きの教師ばかりを高く評価し、自分の後継者として見込むことになります。そうした人たちの指導の在り方はいずれも「オレの若い頃はなあ……」です。時代も変わり、システムも変わり、もうそのやり方は通用しなくなってきているのに。別に悪意があるわけではありません。その若者を肯定的に見ながら、ほんとうに期待してはいるのです。しかし、そうでない若者たちを軽視し、指導することができない。成長させることができない。
しかし、自分と似た特性を持つ若者しか成長させられないとしたら、それは管理職・主幹教諭・主任教諭の職能としては低いと言わざるを得ません。それぞれの若者の背景に目を向けるとか、それぞれの若者の志向性にあわせて的確・適切に助言するとか、その若者にその志向性に寄り添う形で「まだ見えていないもの」を提示してあげるとか、そうしたことができません。それではやはり、「若者を育てる立場」の職能としては低いと言わざるを得ないのです。
後輩教師はいわゆる「弟子」ではありません。後輩教師を育てるということは、自らのコピーをつくることでもありません。後輩教師を育てようと思えば、後輩教師一人ひとりの志向性に基づき、それに寄り添う、その志向性を尊重しながらその資質・能力を高めてあげる、そうした方向性が必要とされます。
日本人は昔から先輩後輩関係を「徒弟制度」や「封建制度」をモデルに考える傾向があります。部活動の縦関係に象徴される体育会系のノリにも、学閥や組織内派閥の人間関係の作り方にも、先輩が職人で後輩はその弟子のように技を盗む、或いは武家社会のように御恩奉公の関係でもあるかのような振る舞いが見られてきました。特に教員は仕事自体が子どもたちを相手にしていますから、無意識のうちに子どもたちを所有物のように扱い、自分の思いのままにしていいと感じているフシがあります。特殊な教育技術を用いる教育思想であろうと、協同的な学習を旨とする教育思想であろうと、その子どもたちを自分のやり方に「染め上げて良いのだ」と思う傾向に実は変わりありません。
そうした「無意識の意識」は職員室内の先輩後輩関係にも本人の自覚ないままに投影され、後輩教師が自分の意にそぐわないことをすると、「これだけやってやったのに」とか「あいつには裏切られた」とか思うことも少なくない現状があります。こうした傾向は一般には年配者特有の傾向、もっと言うなら自分よりも年上の人たちの傾向だと感じていたのですが、最近は三十代・四十代の教師たちからも呑み会の席で聞くことがあります。そんなとき、なんとなく時代が逆戻りしているようでいやな気持ちになります。
僕は若い頃、幾つもの国語の授業研究の会に所属していました。多いときには十七団体に所属していた時期があります。でも次第にその数は減っていきました。どの団体の先輩教師も「研究は一つに絞るものだ」と言うのです。おそらくは若者を自分の後継者として囲いこみたかったのだろうと思います。僕はそれがいやでいやでたまらなくて、そういうことを言う研究団体はやめることにしました。そして研究理念や研究方法を一つに絞ることなく、さまざまな理念・方法から学んできたことによって「現在(いま)がある」と感じています。そういう経緯があるものですから、僕は現在も若者たちに決して「研究を一つに絞れ」とか「自分からのみ学べ」とか「自分の追試をしろ」とかと言わないことを信条としています。そうでない人たち(組織の長や著名な実践家)を見ると、「ああ、この人はダメだな」と思うようにさえなっています。
そうしたことを言う人はたいていの場合、「それが君のためなのだ」と言います。しかしそれは嘘です。若者に「自分からのみ学べ」「この組織からのみ学べ」と言うのは、決して若者のためなどではなく、自分のため、組織のために過ぎません。その若者が成長するためには、広く学び、その広い視野の中から経験値を上げる中で、自分自身で取捨選択の判断をしていくことが最善であるに決まっているのです。
この構造は勤務校の中、職員室の中でも同じです。様々な人たちから様々な理念を学んで、自ら取捨選択の判断をするように促す。若手教師は必ず「自己未来像」に基づく選択をしていくはずです。そうした若手の将来像に対する〈触媒〉の一つとして自分が機能する、そうした構えこそが「自己未来像に寄り添う」ということなのです。