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教員の質は落ちているのか

褒められて伸びるタイプです…。こう言う若者がたくさんいる。先日、金子くんも言ってた。まあ、彼は冗談で言ってたんだけど。まあ、こんな冗談が成立するだけ、この言葉がメジャーであり、ある種の市民権を得ているということだ。

僕は「褒められて伸びるタイプ」に懐疑的である。そういう人がまったくいないとは言わないけれど、いるとすればそれは相当の能力をもった若者ということになる。それは自分のダメなところを自覚する能力をもち、そのダメさを一つ一つ自力で修正する能力をもっていなければならないからだ。「伸びる=成長」は「現在の自分」を否定することである。いまのままではいけないからいまのままではない自分になろうとし、新たな世界に到達するよう自分を高める。それを「伸びる」と言い、「成長する」と言う。とすれば、「褒められて伸びるタイプ」になるためには相当の能力を必要とする。そしてそれはきっと、1万人に一人とか、10万人に一人とかいうレベルの能力だ。

僕は正直、「自分は褒められて伸びるタイプです」と言っている若者に会うと、「馬鹿じゃねえか、こいつ…」と思う。

一方、中堅・ベテランの側もかなりあやしい。

教員の質が落ちてると言う。採用試験の倍率が下がり、これからもっと質は低下すると言う。だから優秀な若者が教員を目指してくれるように工夫しなければならないのだそうだ。

教員の質が落ちてると言う。だから若手教員たちをこれまでとは違った形で育てる必要があるのだと言う。その意識を中堅・ベテランが大きくもつ必要があり、そのために「教師教育」の視座をもつことが時代の必然性であるらしい。

しかし、例えば質の低い、授業づくりや学級づくり、生徒指導や保護者対応もままならない若手教師が10万人いたとして、そうした手立てで力量を高められる教師は何人いるのだろうか。相当なメンターをなんとか揃えたとして、10万人中何人を育てることが現実的に可能だろうか。

1万人か。5千人か。千人か。

いやいや、それではまったく足りないだろう。少なくとも5万人とか6万人とか、できれば8万人くらいは育てられなければ、現実の学校教育を維持することなどできないのではないか。

どうもこの動きは、
「我こそはメンターなり」
「我こそメンターになりたい」
「我こそはメンターとして尊敬を集めたい」
そうした中堅・ベテランの側の欲望から出てきた議論ではないのか。

教員の質が低下し、現在の学校教育システムが維持できないほどに公教育の質の担保ができなくなるとしたら、いやいやそれだけでなく、天井知らずの世論の要求、時代の要求に今後格段に学校教育の運営が難しくなって、教員の質の低下と相俟ってどうにも公教育を成立させられなくなるのだとしたら、必然的にその公教育のあり方の方を変えていく方に時代は動いていくのではないか。

子どもたちを地域ごと、同年齢ごとにそれぞれの箱に閉じ込めて、学級という名の「監獄」に閉じ込めて、授業という名の「ベルトコンベア」で効率的に知識を注入し体験を重ねさせようとする、そうした公教育のあり方自体が崩れていくのではないか。一斉授業からALに移行するとか、規律訓練型権力から環境管理型権力に移行するとか、その程度の改変では済まされない、学校というものが解体され、教師なんていう職業が消滅してしまうくらいの公教育の変化が訪れる、そういう方向に進んでいくのではないか。

だとしたら、優秀な若者が採用試験を受けるような工夫とか、メンターが意図的に質の低い若手教師たちの力量を少しでも高めるように努めるとか、そんな無駄な努力をすることよりも、制度疲労と言われて30年も40年も経つこの公教育のシステム改変を考えることの方が優先されるべきではないのか。

むしろ質の低い教員があふれることは、世論や政治に「もう学校は完全にダメだ。新しいシステムを早急につくらなければならない」と諦めさせる、システム改変を加速させるための良い要素になるかもしれないとさえ思う。

今日はだらだらと過ごしながら、こんなことを考えていた。

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