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抽象と同時に捨象が生まれる

子どもたちのつながりが希薄になっている。

子どもたちをつなぐことこそがこの時代に最も必要だ。

ALは子どもたちがつながるための重要な教育手法である。

ロングレンジで考えた場合、これからは学力の保障以上に、子どもたちをつなげることこそが学校教育の使命となる。

昨今、こんな声が方々から聞こえてくる。しかし、現実はほんとうにそういう方向に進んでいるのだろうか……と疑問に感じることが多い。

例えば、この十年、「特別支援教育」の発想が学校教育に大々的に導入されてきた。「特別な支援を要する」とされる子どもたちに様々な配慮がなされたり様々な支援がなされたりという具体的な取り組みが充実する一方で、「あの子は通常学級では無理なんじゃないか」「あの子はほんとは特別支援学級に行くべき子だよね」なんていう声も頻繁に見聞きするようになった。各学校には「特別支援委員会」「学びの支援委員会」などという名称のもと、各学級の「支援を要する」と目される子どもたちがリストアップされ、特別支援コーディネーターや管理職がリストアップされた子どもたちの日常的な様子を報告するよう求める。うまく機能している学校では頻繁にケース会議が行われ、関係機関との連携を図りながら具体的な対策が講じられてもいる。学びや不登校、メンタル的にトラブルを抱えている子どもたちに対する支援員制度も定着しつつある。スクールカウンセラーの制度は二十年近い試行錯誤の末、ほぼ定着したと見て良いだろう。学校教育の機能としては「充実」の方向に進んでいるという見方をして良いのかもしれない。しかしそれは果たして、「子どもたちがつながる」「子どもたちをつなげる」という理念と合致しているのだろうか。そういうふうに機能しているのだろうか。そこが疑問なのだ。

制度ができる。その制度が機能し始める。そして学級担任の負担が減る。この一連の構造の中に、なにか大切なものが失われ始めているように思われるのだ。読者の皆さんはもしかしたら担任の負担なんて減ってないよと思われるかもしれない。報告文書は増えているし、コーディネーターや管理職、関係機関との連絡・調整も増えている。担任の負担はどんどん大きくなっている。そう思われるかもしれない。確かにそういう面はあるだろう。しかし、その子に対して一人で責任を負う必要はない、管理職やコーディネーターの指示を仰ぐことができる、子どもに対する分析と判断は関係機関の専門家に任せればいい、要するに「みんなでやっている」ということが学級担任の精神的負担を大きく軽減しているわけである。私にはこのことだけは確かなことであるように思える。

皆さんは「abstract」という英単語をご存知だろうか。高校生のとき、英単語を覚えるための参考書を見ていると、必ず最初の頁に掲載されていた単語だ。

「abstract」の第一義的な意味は「抽象する」。「抽象する」とは「取り出す」という意味である。しかし、「abstract」にはもう一つ意味がある。それは「捨象する」という意味だ。こちらは「捨てる」という意味である。私は高校時代、この英単語に不思議な感じを覚えた。「抽象する」と「捨象する」。「取り出す」と「捨てる」。これは反対の意味ではないか。この単語の意味は矛盾してはいないか。

しかし、いまはその意味がよくわかる。「何かを抽象する」「何かを取り出す」ということは、それと同時に「何かを捨象する」こと、「何かを捨てる」ことなのである。「何かを取り出すことは何かを捨てないことには不可能である」と言った方が良いだろうか。

例えば、「そんなの抽象論だよ」と批判したくなることがある。それは具体的な例外を捨ててしまった現実的でない論理だよ、そういう意味だ。お前は具体的な現実をその抽象によって捨象してるじゃないか、そういう批判が「そんなの抽象論だよ」の意味なのである。

例えば、「堀裕嗣は中学校の教師です」と言ったとしよう。これは私の特性のうち、「中学校の教師」という特性だけを「抽象」した一文である。しかし、私は髭を蓄えた五十代の男性であるとか、読書が好きで毎月十万円近い金額を書籍購入に費やしているとか、音楽が好きでCDを数千枚持っているとか、犬好きで二匹のミニチュア・ダックスを飼っているとか、ドラムが叩けるとか、山菜採りを趣味にしているとか……その他さまざまな特性をももつのだ。ところが、一点、「中学校の教師」という特性を抽象して表現した途端に、私のその他の特性はそれと同時にすべて捨象されるのである。「堀裕嗣は中学校の教師です」と抽象的に位置づけることは実はその他の特性を捨象することであり、堀という個人の「中学校の教師」という特性だけを特別に取り上げて、その他をいらない情報として捨てることなのである。特別な特性とその他の特性を「分けること」「分化すること」「分割すること」と言ってもいい。

さて、「あの子は特別な支援を要する子」と抽象化する。そして校内の支援委員会にリストアップされた子として認識される。これを調べなくちゃ、あれも検査しなくちゃ、こういう手立てが必要、ああいう手立てが必要と、次々と動きが始まる。組織的に動き、チームで支援し、学級担任の精神的負担が軽減される。このとき、確実に捨象されているもの、失われているものがある。ひと昔ならおそらくはどこの学校でもそうなったであろう、みんなの中でみんなと同様に注意されたり叱られたりしながら、「ちょっと手がかかるけどおもしろい子」として担任の努力によってなんとか一年を過ごせていた……、それでなんとかなっていた……、そういう一年間を過ごすという可能性である。もちろん、そういう一年間が組織的に動く現在のシステムよりも良かったと言っているわけではない。ただ、担任も、コーディネーターも、管理職も、そして多くの場合は保護者も、「その可能性について誰一人考えなくなっている」という事実を指摘しているだけだ。「この子は特別な支援を要する子」には「他の子と分ける」発想がその裏にある。しかし、かつての「ちょっと手がかかるけどおもしろい子」には「他の子と同じだ」という発想があったように思うのだ。前者は配慮しなければならない「特別な対象」、後者は自分の学級にいる個性的な子として「おもしろがる対象」だったとでも言ったらわかりやすいだろうか。果たしてどちらの発想が「子どもたちがつながる」「子どもたちをつなげる」という教育方針の前提として機能する「子どもの見方」として適切だろうか。もちろん、後者の方が良いと断定はしないし、できない。ただ私たちは、自分がその子の某かの特性を抽象化して「この子はこういう子」と認知するときに、同時に自分が何を捨象しているかということに常に自覚的である必要があるのではないか、そう言いたいのである。

ひと昔前なら、学級担任は自分の感覚に基づいて、その子を分析し、手立てを試行錯誤し、よりベターな手立てを採用し、更にもっと良い手立てはないかと工夫する、そんなふうにその子に接していた。もちろん成功することもあったし、失敗することも少なくなかった。しかし、ここで強調したいのは「自分の感覚に基づいて」という部分なのである。自分の見立てを信じて、或いは自分の見立てを建設的に疑うことによって、かつては試行錯誤し工夫する日常を過ごしていたのである。それが当然の日常だったのである。実は現在、おそらくは子どもの「その他の特性」が捨象されるだけでなく、学級担任のそうした試行錯誤したり工夫したりするという当然の毎日も捨象されつつあるのではないか、私はそれを危惧するのだ。

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