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五十代は何をしようか…

年に何度か、ほとんどの読者が最後まで読み切ることができないであろうこの文章を上げることにしている。どうやら今日がその日であるようだ。

2016年、4月6日のことである

それは札幌にもやっと春らしさが満ちてきて、安房直子の物語にいわさきちひろの水彩画を添えたような芳しい水曜日の午後三時をまわった頃のことでした。

私は転勤を機に一年生の学年主任を任されていました。日傘を差しながら三頭のミニチュアダックスを散歩させる老婦人のようにせわしない数日を過ごし、いよいよ明日は入学式……。準備万端とまでは行きませんが、まずまず不安なく明日を迎えられそう、そんな心持ちになれる程度には至っていました。一年生の学年主任も既に四度目です。学校が変わったと言ってもやるべきことはそう変わりません。

教室の雑巾がけを終えた私はひと息ついて、教卓に腰かけました。さて、五十代は何をしようか……、そう自分に問いかけました。明日は入学式であると同時に、私の五十回目の誕生日でもあったのです。

五十代を通して何かに取り組むと言っても、教育実践を充実させて更に教師として成長したいなとか、思い切って管理職試験でも受けてみようかとか、そうした具体的な目標について考えたのではありません。私は自分に見えているような、こういう立場になったらこういうことになるだろうと想像できるような具体的目標に対して、あまり興味を惹かれない人間です。こういう自分になりたいからこういうふうに過ごしてみようというような具体像をもつと、それが長続きしたためしがありません。私にとってそうしたものは他人とかかわりあいながら、そのときどきの判断で臨機応変に対応していくものです。それ以外に方法はありません。そうした臨機応変はときに成功しときに失敗しますが、そんな成功失敗を繰り返しながら人は臨機応変の精度を高めていきます。それが大人として生きていくということであり、仕事という営みでもあります。しかもそうした営みによって臨機応変の精度が高まると、人は次第に傲るようになり、その具体的目標に到達するためだけに生きるようになります。結果、アクアリウムの水槽ポンプがいつまでも一定の泡を吹き出すように、至って日常的で、極めて現実的な日々しか過ごせなくなっていきます。過ごさなくなるのではなく、過ごせなくなるのです。私が言うのはむしろ、日に何度か水槽ポンプの電源を切って熱帯魚にひとつまみのえさを与えるときのような、退屈で、静かで、しかし生きていくための潤いを確実にもたらしてくれる、そんな営みに五十代を通して取り組んでいこう、そんな意味合いなのです。

私の師匠は森田茂之といっていわゆる現場上がりの国語教育学者でしたが、「何かがちゃんと見えてくるには十年かかる」を口癖としていました。人生にかかわるような大切な何かが見えてくるとしたら、それは一朝一夕で到達できるものではなく、一年や三年でも実は短かすぎて、最低でも十年はかかるよ、そういう意味です。早起きが苦手で生活リズムとは縁の無い私が大学から押し出され、定時出勤・一定業務を繰り返す教職にいやいやながらも就いたのは二十五歳のときでしたが、私は教職とは無縁の自分だけの営みを十年間続けてみようと決意しました。何に取り組もうかと迷うこともなく、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』を読もうと決めました。岩波文庫の上中下の三冊です。私は数ヶ月前に引用と物真似による卒論にハイデガーを多数引用していました。しかもよくわかってもいないのにわかった振りをして引用する自分に嫌悪感を抱いてもいました。悔しいからちゃんと読んでみよう。その程度の思いつきでした。私はその日、学校帰りに大学ノートを一冊買い求め、岩波文庫の『存在と時間』を開いて読み始めたのです。しかし懸命に文章を目で追うのですが、頭にはまったく入ってきません。こういうことを言っているのだろうというイメージさえわきません。メモを取ろうとしたノートに何を書けば良いのかさえわかりません。完全にお手上げです。こりゃだめだ……。

私は文庫本を持ってコンビニに走り、『存在と時間』の最初の五頁ほどをコピーしました。ついでにクリームパンと缶珈琲も買いました。また近くの紀伊國屋書店に寄って、ハイデガーの概説書を三冊ほど購入しもしました。家の机で真新しい大学ノートを開き、クリームパンを囓り缶珈琲で流し込みながら、ハサミを取り出してコピーを文庫本の大きさに切りそろえ、それをスティック糊で大学ノートに貼りました。私は国語教師ですから縦書きを好みます。大学ノートは横長に使い、見開きの上頁にコピーを貼りつけ、下頁はメモ用に空けておきます。これが私が大学時代に身につけたスキルでした。

こうして無宗教の私に同伴者イエスのようにハイデガーが傍らにいる、そんな生活が始まりました。長い時間でした。鞄には『存在と時間』の上巻か中巻か下巻かのどれかが入っているという生活が九年間続きました。何度もやめてしまおうかと考えましたし、せめて日本人にしておけば良かったとか、夏目漱石ならたとえ全作品を読むにしてもこれほどの苦労はしなかっただろうとか、難しくても薄い『風姿花伝』にでもしておけば良かったとか、いつも愚痴愚痴考えていました。

それでも私はなんとか九年かけて『存在と時間』を読み通したのです。もちろん私のことですから、計画的に読み進めたわけではありません。ときには一日中この作業に没頭する日もあれば、ときには三ヶ月も鞄に入りっぱなしで開かれることがないということもありました。文庫本はたった三冊なのですが、ハイデガーの概説書や解説書は数十冊に及び、私の書棚を占拠するようになりました。いまでも本棚一つ分を占拠し続けています。大学ノートは結局、三百冊近くになりました。この九年間で私は四度卒業生を送り出し、車を買い、交通事故を起こして訓告を言い渡され、家を建て、結婚をして離婚をしました。それでもハイデガーだけは読み続けたのです。読み始めて三年が経った頃、ハイデガーは私にとってほんとうに同伴者になっていきました。卒業生を送り出すたびに充実感を得たのも、交通事故を起こして処分されたことにそれほどショックを受けなかったのもハイデガーのおかげでした。いまでもときどき、ハイデガーを読まなかったら離婚なんてしなかったのではないかと思うことがあります。私の二十代後半から三十代前半はそんな十年間でした。

いま、当時の『存在と時間』の文庫本がどこにあるのか私にはわかりません。捨てた覚えはないので、本気で探せばきっと書斎のどこかにはあるでしょう。当時の二百冊を超えるノートも既に顧みられることはなく、クローゼットに積み上げられた段ボールか本棚の上に並んでいる段ボールかのどれかに眠っているはずです。二十年前のこの営みによって私に残ったものは、そうした「モノ」ではありません。当時は思考の軌跡を遺したいと思って一所懸命に線を引きノートしていたわけですが、その線と折り目だらけの文庫本や汚い字で書き留められたメモがその後の自分に必要なわけではないのです。そもそも、もう『存在と時間』の細かな内容やノートを取りながら考えたことのほとんどを既に私は思い出すことができません。退職して暇ができたらそれらのノートを見返すことがあるのかもしれませんし、そのときには数十年前の自分の思考の軌跡をありありと想い出すのかもしれません。しかしそうした時間はもう少し先のことです。

この経験を通して私に残ったものはおそらく、自分は九年かけて『存在と時間』を読み通したのだと思えることなのではないかと思います。その営みの中で多くの資料に当たりながら一つ一つ疑問を解決していったのだということなのだと思います。そして『存在と時間』とはおおまかにいえばこういうことだと確信をもって言えるようになったことなのてだと思います。ハイデガーが生きる上での同伴者となったこと、更には多少難しいことでも時間と労力をかければ理解できるようにものだと思えるようになったことなのではないかと思うのです。子どもの頃の親のお説教や口癖が五十になってもふと口をつくことがあるように、そして「ああ、普段は意識していないけれど親の影響を色濃く受けているのだな」と苦笑いするように、本気で時間と労力をかけて学んだことは自分の中に溶けるのです。それを血肉化すると言ってもいいし肉体化すると言ってもいいけれど、日常生活において、或いは生きていくうえで活きる学びというのはそうした段階にまで到達したものだけなのではないでしょうか。

ついでに言えば、『存在と時間』を読み終えた私はその後、三十五歳の春から三島由紀夫全集を読み始めました。新潮社の旧版全集全三十六巻です。私の卒業論文は三島論でした。題材こそ島田雅彦論ではあるのですが、三島の死後に三島と出会った世代である島田雅彦(もちろん僕もその世代なのですが)の中に三島がどう根付いているのか、要するに三島の作品を読むときに三島の壮絶な死を前提としてしか読めない世代にとっての三島とは何なのか、それを旧世代(つまり、三島の生前から三島を読み、三島の死を前提としてではなく結果として捉える世代)の感受と比較して論述するというものでしたから、実際的には三島論です。そんな経緯があり、学生時代にアルバイトしたお金二十万円ほどを投じて私は既に三島全集を購入していました。しかし、卒論に中心的に引用した何冊か以外はほとんど読んでいなかったのです。自分で稼いだお金で初めて買った大きな買物、それも知的な買物です。それが読まれずに朽ちていくというのは、それから十年以上が経っても私には我慢できなかったのでした。そしてその作業は四十七歳の夏まで十二年半続きました。三島全集は一冊一冊が箱入りのハードカバーですから持ち歩くことができません。すべての作業は自宅ですることになります。それだけに少し時間がかかりました。

三島由紀夫全集は第一巻から読み始め、気に入ったフレーズ、気になる思想、驚くような論理などが出てきたときに、その段落を一太郎に打ち込むという形で読み進めました。短いフレーズだけを写したのでは前後の文脈がよくわからなくなります。それで段落で打ち込むのです。もちろん、ときには数段落をセットで打ち込むことにもなります。ここが気に入ったフレーズなのだ!ということがプリントアウトしたときにわかるように、写すきっかけとなったフレーズはゴシックにしておきます。それだけの作業です。この作業に十二年半かかったわけです。

この作業は私にそれなりに意味の通る文章を書くうえでのスピードをもたらしてくれたと自分では感じています。例えば、私はいまこの文章を書いていますが、冒頭の入学式前日の描写から『存在と時間』を経て三島全集に至るこの文章を私は一時間弱で書いています。もちろん原稿用紙に向かって書いているのではなく一太郎に打ち込んでいるわけですが、原稿用紙にすれば十三枚ほどの文章です。この作業をしていないかつての私なら、いくらワープロとはいえ一時間弱でこの内容を書き上げることはできなかったでしょう。しかもプロットを立てたわけでもないしなんらかのメモを取ったわけでもないのに、入学式の前日の描写を綴りながら、私にはこの文章がどのように展開していくかということを直感的に理解しながら書いているのです。いまこの瞬間もそうです。私にはこれからこの文章がどう展開していくのかが手に取るようにわかっています。経験のない読者には理解できないかもしれませんが間違いなくそういうものなのです。その意味でやはり、三島全集の営みも私の中に何らかの形で溶けたのだと思うのです。私の三十代半ばから四十代後半へと至る十数年間の営みは無駄ではなかった。そう思えるのもこんなふうに表現している最中(さなか)です。もちろん私は三島全集を読み始めるうえで、こういう効果が自分に顕れるということを意識していませんでした。ハイデガーのときもそうでした。最初から具体的な目的や目標をもって始める作業にあまり興味を惹かれないと冒頭に書きましたが、それはこういう意味なのです。何となく自分の中に引っかかっている思いを契機に、必要だと思うことに取り組む。それを続けているうちに自分でも気づかぬうちにいつのまにか何かを学んでいる、それが自分でも気づかぬうちに自分の中に溶けている、ふと気づくとその溶けた学びが起動している、おそらく学びとはそういうものなのだと思います。

そして繰り返しになりますが、学びとはその学びの対象の「内容」を学ぶことではないのです。つまりは「情報」を学ぶことではないのです。その学びに取り組んだ時間の「密度」、その学びに取り組んだ際の「熱量」、そしてその学びで自分という人間が凝縮していく「濃度」、そうしたものが「情報」などというものが比較の対象にならないくらいに確かな存在感をもって遺るのです。ちょうど十代の頃に大好きだった女の子がもう顔もはっきりと思い浮かべられないのに、その時間を過ごした密度とその胸に感じた熱量だけははっきりと想い出せるように。或いは既に鬼籍に入った母親に抱かれた幼少時の記憶なんて模糊としているはずなのに、そのぬくもりと頬をあずける安らかな眠りの質が、四十になろうと五十になろうと自分の躰の中に密度や熱量や濃度としてはっきりと甦るように。学びとは言葉では表せないけれど、これらの経験と同質の何かなのだと思うのです。

「さて、五十代は何をしようか……」

私の自分への問いかけはこのような学びを創生する十年間の取り組みとして、何をやってみようか、自分にはいま長い時間をかけて取り組んでみたいと思うような引っかかっていることがあるだろうか、そういう意味なのです。

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