教師は嘘つきでもいい?
教師は嘘をつく職業だと言っても過言ではない。もしも教師がほんとうのことだけを子どもたちに語るとしたら、学校教育は成り立たなくなってしまうだろう。
きみはいくらやっても伸びないよ。人間には持って生まれた限界がある。なんだかんだ言っても長いものに巻かれるのが楽さ。どうしても合わない人ってのはだれにでもいるもんだ。生理的に受けつけない、そんな人に先生も幾人か会ったことがあるよ。馬鹿だなあ、男子ってのはだれだって性的にはお腹がぺこぺこの狼なんだぜ。女の子ってのはいつだって愛情の乞食なんだ。大人になったって楽にはならないよ、子どもでいられるいまの方がほんとはずっと楽なのさ、いまにわかるよ。みんながみんな真っ当に生きられるわけじゃない、イレギュラーってのは必ずいるもんだ。問題はその集団においてイレギュラーの出現する確率であって……。
こんなことを子どもたちに語る教師はまずいない。でも、職員室では語る。職員室では語るのに子どもには語らない。職員室で語るということは、その教師がほんとうはそう感じているということだ。それも自分の人生を顧みた本音の人生観としてそう感じているということだ。なのに子どもには語らないし、語れない。こういうのを「嘘つき」と呼ぶのは言い過ぎだろうか。
でも、そんな「嘘つき」もほんとうはいい人になりたいと思っている。いい人として感動の渦のなかに身を置きたいと考えている。だから、卒業式になると、教師は「いい子どもたちだった」と子どもたちの在学中を振り返る。ほんとうはいいことばかりじゃなかったのに、腹を立てたり哀しんだり切なくなったりしたことがすべて浮かばなくなる。「いい子どもたちだった」という印象のみが残った心持ちに包まれる。ほんとうは世の中はそんなに悪いもんじゃない。ほんとうは人はそれほど悪い人ばかりじゃない。ほんとうは人はいいところをいっぱいもっているんだ。そんな普段なら「偽善」のそしりを受けても不思議ではないフレーズが、「偽善」ではなくなる。
この、日常なら「偽善」とさえ感じられるフレーズ達を「偽善」ではないと感じさせるもの、その教師の心持ちの在り方はいつ何時に形成されたのだろうか。僕が言いたいのは、それこそが幼少期から青春期にかけての学校教育の賜なのではないか、ということだ。
日常的には「ほんとうは悪い」と感じているものさえ、「ほんとうはいいのだ」と信じたいと思わせるもの……。そういうものが世の中にはあるということを信じる心持ち……。人はそれなくしては生きられないのではないか。そしてそういうものが確かにあると体感させること、教えるのではなく、理解させるのでもなく、頭にではなく心と躰に無意識裡に焼き付けること、それが学校教育の務めなのではないか、そう思うのだ。
こう考えれば、ほんとうにはやっても伸びない子に「きみはやればできる。」と言い続けることが肯定されるはずである。「だれしも無限の可能性をもっている。限界なんてない。」と言い続けることも肯定されるはずである。「だれにも良いところはある。悪いところではなく良いところを見るように心掛ければ、嫌いな人、苦手な人でも好きになれる。」と言い続けることも肯定されるはずである。「先生には嫌いな人なんていないな。」という大嘘も肯定されるはずである。「いま頑張れば、後に素晴らしい人生が待っているんだよ。」という根拠のないポジティヴ思考も肯定されるはずである。こう考えれば、教師は「嘘つき」でなくなる。少なくとも、教師の嘘が「必要悪」にはなる。良心の呵責を感じることなく、教師が綺麗事を言えるようになる。
世の中は綺麗事だけではできていない。大人になればイヤというほどにわかる。わかりたくないのにわからざるを得なくなる。いや、思春期から少しずつ綺麗事の欺瞞が曝かれるのをだれもが少しずつ目にするようになる。そうして僕らは大人になってきた。いま、僕らの目の前にいる子どもたちもそんな欺瞞を少しずつ目にしながら毎日を過ごしているはずだ。そんな子どもたちに、「世の中、悪いことばかりじゃないよ。」「頑張れば良いこともあるんだよ。」「努力は必ず報われるんだよ。」と語ってあげることが僕らの仕事なのではないか。
自分が教師になってからを振り返ってみよう。逆境に身を置かざるを得なかったとき、そこで諦める人と諦めない人との違いは、そこで前を向けるか否かであるはずだ。逆境において前を向ける人は、どこか世の中を信じ、どこか人を信じているところがある人、そんな印象がないか。
だれだって前を向きたい。しかし、前を向くためには前を向くための基礎体力のようなものが必要である。その有無を決める大きな要素の一つに学校でどう過ごしたかがある。
教師は子どもたちのためにこそ、「大嘘つき」であるべきなのだ。