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そこには人がいる:建築家と写真家、そして、建築写真について。 (完全版)

はじめに

皆さんは、「自分」という感覚をもって、日々の出来事や人々、物事に向き合っているでしょうか。設計をするとき、シャッターを切るとき、誰かと対話をするとき——その瞬間に自分の「視点」は存在しているでしょうか。

私たちは日々流れ出る情報という「水」を、毎日疑うことなく飲み、日々体内に蓄積しています。スマホを見る、というのは既に情報を取り込んでいます。これは疑問ではなく、確信です。

こうした現状を前にして、私はふと考えます。

この実態を伴わない経験がどれだけ私たちの意思決定や発想に影響しているのか。日常生活、そして、クリエイティブな作業を行う際に、「自分の意志」は存在しているのだろうか、と。

本記事では、情報社会の渦の中に生きる私たちが「自らの視点」を見つめ直す契機として、建築写真の現在の状況とその役割を見直し、場所、人、写真の有機的なつながりを改めて探っていこうと思います。

「写真家と建築家、建築写真の関係」を基軸に、写真の歴史をひも解きつつ、建築家と写真家の視点から「建築写真」のあり方について考察していきます。少し学術的な視点からのアプローチになりますが、自らの視点を見つめ直す契機になればと思います。

それでは、現代の情報社会では、私たち個々の視点がどのように影響を受けているのか、まずは視覚情報の氾濫について考えていきます。


視覚情報の消化不良


「私は目で見るのではなく、目を通して見るのだ」

-ウィリアム・ブレイク

現代社会、私たちは手のひらの中に膨大な情報を抱えています。スマホひとつで綺麗に編集された画像が見れ、解説が読め、そして最近では自動生成された情報にアクセスできます。それはまるで、知識の宝庫がそこにあるようにも感じます。

しかし、実際のところ、それで私たちは物事を「知る」ことができているのでしょうか?

インターネットが存在しなかった時代には、こうした視覚的な情報は現地での体験を通じてのみ得られるものでした。自らの足でその場所へ実際に赴き、そこで見て、感じ、考える。こうした体験が唯一の「知る」手段だったのです。ところが今や、誰もがその場に行かずとも知識を得たように錯覚してしまう。この影響は一般の人々のみならず、建築を含めたあらゆる専門家にも及んでいることは否めません。

モホリ=ナジの警鐘:視覚メディアが作る思考の枠組み

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