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ひらかれた写真展「It will Be展」を振り返る

梅雨入りしたはずの大阪はウソのようにカラっと晴れ渡り、高い夏の空が広がっていた。

そんな中で開催されたIt will be展は、IttokoとB'sという2つのサークルの合同写真展。

まさに大阪夏の陣。6日間の展示期間は毎日30℃を超え、一歩会場の外に出るとアスファルトはもはや焼け爛れたマグマのよう。暑さから逃れる為にUberイーツにすがったものの、スタバのオーダーにホットほうじ茶ラテを混入させてしまい軽く絶望したものだった(Yumaくん、ごめん)

展示室が中庭を挟みつつ5つに分かれていたが、同室の別所さんが来場者に都度「ひらかれた写真展なんですよ」と話していたのがまだ頭をめぐり続けている。

ひらかれた、とはどんな意味か?

ひらかれた写真展。
もちろん誰でも入場無料。階段や段差はあるので完全バリアフリーではないけれど、どなたでも見ていただける写真展だ。
2つのサークルの合同展示だが、参加者も選抜ではなく早いもの勝ちでジャンルも固定・指定されていない。風景、ポートレート、ストリート、星景、家族写真、散文三谷、ライカ勢(ひとくくり)、なんでもござれだ。もう十分すぎるほどひらかれているように感じる。

大阪開催なのでオープンな雰囲気も別格だし、なんなら南は九州のドローン操縦者から北は青森赴任予定者まで参加しているし、撮影場所も国内外、スタジオ、自宅と幅広い。

確かにひらかれているな、と思いながら、別所さんの著書をおもむろにひらくとそこにはヒントがあった。

みんな揃って(そこに私はいません。眠ってなんかいません。帰ってました。)

むすんでひらいて

さて「ひらく」の対になる言葉として「むすぶ」をここでは使いたい。

写真を語り直し続けることで一枚の織物を結び合わせていく
「語り直す」とは、事実の置き方を見直すことだ。そして今の自分から見て「こんな風に現在につながっていた」と見出すルートを見つけ出すこと。それはまさに、自分の人生をかけた「織物」を何度も作り直す行為だ。
〜中略〜
写真こそまさに、この「織物」がそれぞれ結び合わされていく「結節点」になる
〜中略〜
「あなたと私は、何一つ共有していない」
 そのあなたが私の写真を見て、何かを話す。
その物語は、私の知らないところで私の写真があなたの「織物」の中に組み込まれたということ。

「写真で何かを伝えたいすべての人たちへ」より

一度結んで作られた結節点を語り直して再度結び直すには一度開かれる必要がある。来客と話し、聞き、共有できない語りを通じて結び目を解き、それを新たな結節点として誰かと結び直す。それこそがこのひらかれた写真展の意味だった。

むすんでひらいて てをうって むすんで
またひらいて てをうって そのてをうえに

「むすんでひらいて」 文部省唱歌

撮ってはそれを展示する、そこを起点に物語を紡ぐ。
そんなリズムの裏拍にあたるのがもしかしたら写真展示なのだろう。

写真展では半ば強制的に鑑賞者の視線と視点、感想を受け入れるひらかれた立場となる。足を止めて写真を観て、感想を言ってもらえる。こんなにありがたいことはない。とても贅沢な時間だと思う。

進化する祭壇、お供物も日々増えた

はじめましての人、他の人の展示を見に来た人、久々にあう写真仲間、通りすがりの人、そんな人々と言葉を交わし、作品について語らうとき、口寄せのイタコよろしく当初想定もしていなかった自分の考えや思いを言葉にしていることにハッと気づくこともある。
今回もHallucination of Future「未来の幻視」というテーマで展示してのたけど(※Hallucinationは幻覚、もしくはAIの間違った回答のこと)、対話する中で気付けば『未来っぽさの中にあるそれっぽい胡散臭さ』という言い方に落とし込んだりしていた。束の間の対話と写真を通して生まれるそれこそが、自分の中に残る新たな結び目の萌芽だ。

Hallucination of Futureのコーナー

展示者同士でひらかれること

ひらかれているのは何も来場者と展示者という関係性においてだけではない。展示者同志も同様だ。前回参加したアイドンノー展も特化型ビルドの個性派が禍々しい形状をした大型武器で殴り合うような世界観で楽しかったが、今回展示メンバーの中には全く別の方向性で展示しているメンバーもいて、それが自分の中に新しい結び目を残すことになったりもした。「自分の最高到達点で勝負」みたいな感じでもなく、ただ淡々と好きな作品を他者にひらく。
どうしてもグループ展だと他の人が写真力で視線を奪いに来るのに対し自分なりにどう立ち向かうか?みたいな競争意識が芽生えがちなのだけど、「あ、写真ってこんな素直に、ストレートに表現していいんだ、そういえばそうだったよな・・・」と少し己の自己顕示欲を冷静に振り返り、解き放たれる感覚が確かにあった。

写真歴の長短、技術のよしあし、機材の違い、そんな頸木から解き放たれて展示者同士がお互いに結び目を形作る。そういう意味でもひらかれていたと思う。ジャンルごとの展示エリア分けもなく、これが写真表現の坩堝るつぼとして各部屋がひらかれるために装置として機能していた。

在廊叶わなかった彩藤さんの展示はメガ進化していて話を聞いてみたかった


ひらかれることで得られるもの

ひらかれることで自分には何が残っていくのか?
写真展とはカズオ・イシグロが言うところの縦の旅行の一つだ…と思う。たぶん。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

こなもんをたくさん美味しくいただきましたが、これは縦の旅行ではない。

大阪まで行っといて縦の旅行とは?と思うかもしれないが、写真という領域を軸にしてその中で縦の違いに触れ合うことができる。
写真をSNSで見かけたことはあっても短いキャプションで一言二言のリプが関の山で、結び目を作れるほど、その写真の物語を語り合うことはない。色々写真を目にするが多くは「そう言う写真があったな」という印象だけを残し流れ去っていく。

写真について何を思ってシャッターを切ったのか、どういう意図でセレクトしてその配置、額装、ブックに仕立てていったのか?踏み込んでいくことで見えてくるのが縦の旅行だ。今回の展示で私は紙についてコメントをもらうことが多かった。

久々にお会いできたなつなみさんと例のポーズ
スト6はリュウでマスターです。対戦よろしくお願いします

フラットに写真が駄々流れしていくSNSと異なり、プリントとして現世に受肉した写真たちはやはり空間へ一定の干渉力をもつ。それが展示者によって語られる物語と合わさり、誰かにいつどのように刺さってしまうかすらわからない。物理空間を共有して展示しているからこそ起こる面白さだ。

その力を借りて写真や展示の意図をいつもより少し踏み込んで語り直すことができる。なんなら来場者と展示者との立場を入れ替えて写真を見せてもらうことも多い。今回も目を輝かせながら話を聞いてくれた広島出身の写真学生の方やサイアノタイプでゴリゴリの作品撮りをしている方の写真を見せてもらい、写真界隈の奥深さまた一歩だけ踏み込むことができた。
また、たまたま立ち寄っただけ、の人などもいて、写真には興味ない人の視点から話を聞くのも面白い。

こういったとき写真展こそ最もシンプルに体験できる縦の旅行となる、と思っている。

花火ポトレ師が嬉しそうに見せてくれたM型と新レンズ

結び

6日間、写真展を楽しんだ。
何度も飲みに付き合ってくれた人、ご飯食べに行ってくれた人、ドラゴンフォースのハーマン・リーについて語らってくれた人、受付、運営、同部屋の方々、私のnoteでSummiluxを買わせてしまった人。

よい旅になりました。心からありがとう。

ウォール・Yukkeyこと壁の王と。





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hirotographer
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