私の2.26事件結末
ずっとNoteをさぼっておりました。最後に「私の2.26事件(続々)」を掲載してからすでに半年経ってしまいました。読み返してみると、結末をお伝えするに至らず、「以下は次回に」となっており、恥ずかしい思いです。
前回は、煙の中をOne World Trade Centerの85階から1階まで降りて抜け出した後病院に運ばれ、数時間の後にホテルに帰り着いたところまででした。
病院に収容された日本人が4名いたらしく(何年も後に当時の新聞を見て確かめました)、領事館経由だと思いますが、名前が公表され、私のごく数日間、超有名人になったようです(笑)。
後日談ですが、被害にあったこのOne World Trade Centerの家主は、Port Authority(港湾当局)という役所でした。ご推測いただけるように、多くのテナントがこのビルからの退去を検討しました。私の勤務先であった住友銀行も同様です。結果としては、かなり多くの企業が残ることになりました。大きな理由は、家主であるPort Authorityが大幅な家賃の値下げを提示したからです。
残った中には、同業の旧第一勧業銀行、旧富士銀行もありました。
そして、こちらの方は記憶されている方も多いと思われる9.11(同時多発テロ)が2001年、「2.26事件」の8年後に起こったわけです。この時には、この2行の方々の多くが犠牲になったと聞いています。
報道によれば、日本人犠牲者は24人、うち12名が富士銀行ニューヨーク支店で働いていた人々だったそうです。私も仕事の関係で、同行のニューヨーク支店にはおじゃましたことがあります。同時多発テロ後に、かつて住んでいたニュージャージー州のフォートリーという街を訪れた時、その街の大きな公園内に、犠牲者の慰霊碑が立っていて、そこに刻まれている犠牲者名に多くの日本人の名前があったことを、思い出します。
かなり後、銀行に同じ年に入行して仲間が集まる同期会が開かれました。宴会の席の隣は、後に人事部長を務めたT君でした。もしかしたら私の記憶違いかもしれません(T君は否定するかもしれません)が、その時、「戸田、あの時はありがとう」という言葉をもらいました。
「何?」と聞き返した私に彼が言ったのは、あの時(1993年2月)の爆破事件の時に、私が病院に運ばれたのがニュースになったこともあり、住友銀行がミッドタウンに移転したため、9.11では犠牲者がなかったことを指していたとのことでした。1993年の事件後は、銀行内でも、ワールドトレードセンターに残留すべきか退去すべきがで、随分議論があったことは仄聞しています。決して私の病院行きが唯一の決断要因ではなかったと思いますが、結果的に移転したことが、「犠牲者なし」につながったということで、昔の勤め先には若干ながら貢献できたのかなと思い、T君の言葉には感謝しています。
この事件に遭遇したのは、ベルギーの支店から転勤でニューヨークにやってきて間もない時期でした。それから銀行に3年半ほど勤め、結局そこで退職してニューヨークでプチ起業をしました。その後、紆余曲折を経て、2000年末、9.11の9ヵ月前に帰国し、またサラリーマンに戻りました。
ニューヨークを去るまでの約8年間には、この他にもいくつか大きな出来事がありました。また、ここの記すことがあるかもしれません。私の2.26事件はひとまず終わります。
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