5年前の独り言

5年前にFacebookに書き込んだものです。今も基本的には同じ認識をしていますが、一つ大きな変化があったのは、機械翻訳の発達です。

<以下引用>

英語雑感

 「日本人の多くにとって、英語は日常生活に欠かせない代物ではない。だから、英語を必死に勉強するのは時間の無駄である。仕事等で本当に必要な者だけがそうすれば良い」という説を唱える人も多いようです。

 そこで、こうした「普段英語を必要としない人が圧倒的に多い」状況が、なぜ存在するのかについて考えてみました。

 ひとつには、翻訳や通訳の発達があることは、間違いないと思います。しっかり調べたわけではないのですが、海外で起こっていることを伝える夥しい量のニュース、ビジネス文書、学術書にいたるまで、多くのものが、発表されて間もなく日本語に翻訳される(あるいは、日本語ニュースとして流される)。こんな国は、世界中でも珍しいと聞いています。

 翻訳や通訳された情報がなかったならば、仕事や生活をする上で、支障を来す人は多いと思います。つまり、日本には、「海外の情報を仕事上、生活上必要としているけれども、それらの入手を、日常的に他人の手助けを借りて行なっている」人の数が、非常に多いと考えられるのです。

 例えば、経済学を勉強することが有益であることは多くの人が認めるでしょう。しかし、世の中に、日本語で書かれた教科書が1冊もなければ、外国語で書かれたもので学ぶ以外にありません。そのためには、少なくとも、英語で読む力は必要です。

わが国の英語の歴史を振り返る

 わが国の歴史を振返れば、幕末から明治にかけて、日本の近代化に必要とされる知識を日本語で読む術がなかった。あたかも、経済学について日本語で書かれた本が一冊もない(翻訳書もない)のに近い状況だったはずです。こういう環境では、そうした知識を、外国語で書かれている書籍を直接読むしか必要なものを手に入れることができなかった。必要なものを手に入れるために、外国語が必要だったのです。(ここまで書いてきて、杉田玄白の『解体新書』を思い出しました。オランダ語が読めなければ、玄白には、どうしても知りたい情報が手に入らなかったわけです。だから、オランダ語と格闘した。)

 こう考えると、日本語で供給された情報だけで自分は仕事もし、日常生活も送れるのだと考える人が圧倒的に多ければ、わざわざ英語を一生懸命勉強する必要もないと考えるのは、極めて合理的です。「英語の勉強は、楽しく続けることがコツ」ではありますが、「絶対に必要」という条件ほどは、強烈なインパクトは持ち得ないでしょう。

 こうした状況を踏まえて、今、英語を学ぶことに否定的、あるいは、今ひとつ積極的になれない人に真剣に考えて欲しいことは、「あなたにとって、海外から入っている情報は、誰かがあなたに代わって入手してくれたものだけで十分なのですか?」ということです。この答えが"No"であれば、やはり英語やるべきでしょう。その根拠は、人それぞれでしょうが。

 情報の量は莫大でも、何らかの要因で、その内容が偏ったりすることも考えられます。そうすると、より偏りのない情報、あるいはセカンドオピニオンを求めるために、もっと言えば自分を守るために、直接外国語で情報を取りに行ける技能は、獲得すべきものであると思います。

こういうレベルでの議論もあって良いのではと漠然と思って書いていたら、珍しく長くなりました。独り言です。<引用終わり>

次はどこかで機械翻訳について書いてみます。


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