〔余白の創造性〕一駅分歩くこと
余白の創造性連載第十四回目の今回のテーマは
”一駅分歩くこと”
皆さんも普段何となく一駅分歩くことありませんか?
僕は割と一駅分歩くことが好きです。
一駅分を歩こうと思うときってどんなときでしょう。
例えば天気が良いときとか、
次の予定まで少し時間があって、歩いたら丁度良さそうなときとか。
理由は色々ありますが、一駅分って何だか丁度良いと思うんです。
電車に乗ったとしてかかるお金は大体百三十円~二百円くらい、
所要時間は電車なら三分くらいで、歩いたら十五分くらいでしょうか。
時は金なりとも言いますから、一駅分なら大まかな計算で一分を十円で買うことになると考えることにします。
さて、このコラムは余白の創造性を考えるものなので、
一分が十円の価値のところ、
歩くことの余白の創造性でその一分が十円以上の価値になるのかを考えましょう。
そもそも、一分が十円という価値が高いのか低いのかという議論は一旦置いておきましょう。
見えないものの価値基準は個人の尺度によるものなので答えを出すのは難しいので。
まずは、一駅分を電車に乗るか、歩いて移動するか考えるときとはどんな状況でしょうか。
前述したように天気はこれを考えるとき大きなファクターになります。
晴れて心地良い青空の下を散歩がてら一駅分歩く選択をする人は多いと思います。
逆に服や靴が濡れることを避けて、普段は歩くことを選択している人でも雨の日は電車に乗るという人も少なくないでしょう。
その他の要因としては、荷物の量だったり、靴が歩くことに適しているかなんかが外的なものでしょうか。
あとは、内的なもの、精神的な部分に左右されることもあると思います。
何か良いことがあったときに何だか歩きたい気分になったりしませんか?
逆に悪いことがあったときも、ゆっくり歩いて思考と気持ちの整理をしたいときもあります。
そういう考え事をするときって、部屋の中で周りに誰もいない本当に一人きりの状態よりも、
道を歩きながらとか、一人きりなことに変わりはないけれど、周りに人の気配は感じられる方が安心することありませんか。
僕は歩いているとき、自分の存在は空気に溶けていきながら、自分の中に感情だったり思考の輪郭がはっきりと浮き上がってくるような感覚が好きです。
電車のように枠取られた空間ではなく、自分の存在が辺りに溶け出していくような、あの感覚が考え事をするときに必要なことだと思います。
この感覚を上手く言語化するのはなかなか難しいですが、
外側つまりは自分の存在が曖昧になることで、
内側にある思考や感情がより認識しやすくなるのではないでしょうか。
そういう意味で一駅分歩くことは精神的な面でのメリットがあると思います。
おそらく、運動不足の解消とか身体的な面では一駅分くらいではあまり効果はなさそうですが。
見えるものは一時的で、見えないものは永遠に変化し続けます。
十円や何kg痩せたというのは一時的なことです。
思考や感情の整理によって得られる精神的な充足感の価値は、それこそ永遠に変化し続けます。
不確かであることが、その存在を永遠にするのです。
つまり”一駅分歩くこと”の価値を無理矢理決めるとすると、
少し大げさかもしれませんが、僕はその価値は計り知れないと思います。
それは不確かで、曖昧で、変化していくものだから。
十円より高いかもしれないし、安いかもしれない。
その価値はきっとそれぞれに委ねられるものなんだと思います。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
段々暑さも和らいで一駅分歩くのにちょうど良い季節がやってきますね。
僕も秋は歩きたいです。
さて、来週のテーマは“やる気”について。
それではまた来週の金曜日に。