〔余白の創造性〕みえるもの、みえないもの
余白の創造性連載第十六回目の今回のテーマは、
”みえるもの、みえないもの”
僕らの知覚は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五種類あります。
なかには第六感みたいなものもあるのかもしれませんが、とりあえずそれに関しては置いておきましょう。
僕らはその五感のなかで、視覚に頼る割合が非常に大きいと思います。
聞こえていても、触れていても、味わっていても、においを嗅いでいても、見えていなければそれが何か分からないことも多々あります。
逆に見えていれば、音や感触、味ににおいなんかを想像することは出来ます。
僕らは視覚で捉えられるものほど認識しやすいということでしょう。
しかし、世の中には見えるものばかりではありません。
同じくらい見えないものは存在していて、そして見えないからといってその存在を全く知覚出来ないというわけでもありません。
僕らは見えないものも視覚で捉えています。
もちろん正確には見えていないわけですが、
見えないものの存在を信じている人もいると思います。それこそ幽霊みたいな。
見えないものを見ようとすることも、それを視覚的に捉えているわけです。
それでは見えるものと見えないものの違いとは何でしょうか。
見えるもの、実体のあるものは一時的です。
その存在は常に朽ちていっていて、最後には必ず消滅します。
逆に見えないもの、実体のないものは朽ちないという点でいえば永遠と言えるかもしれません。
しかし、それも本当に永遠なのか考えてみると、はっきりそうとは言い切れないでしょう。
例えば、思想や哲学、教訓や感情など、それらは物質的な意味で朽ちることはありません。
ところが、それらは見えるものに、物質に依存しなければ存在していないのと同じなのです。
人から人に受け継がれたり、本にして残したり、そのように物質に依存することで忘れられることなく、その存在は残っていくのです。
人間にしても、見えるもの(身体)に見えないもの(魂)が宿ることで存在しているのかもしれません。
僕は魂を見たことはないので、実際に僕らがその二つに分かれているものなのかは定かではありませんが。
いずれにせよ、無限なものが有限なものに還元されることで存在を保っていると言えるでしょう。
見えないものは、見えない限りは存在していないのと変わらない。
物質に依存し、実体があるということが存在の証明において重要なことなのです。
期限があることで、その輪郭が鮮明になり、
死があることが、生に無限の意味を与えるのです。
死というものもそれ自体は見えません。
しかし、僕らは日常の様々なところで死を目の当たりにし、それを恐れます。
僕らのなかで死というものが見えない何かではなく、
その輪郭をはっきりと認識したときに生を実感するのでしょう。
見えないものの永遠性は無限の創造力を持っているようにもみえます。
しかし、見えるもの、朽ちていくことが僕らに真の創造性をもたらしているのではないでしょうか。
だから僕らは愛を語るし、気持ちを言葉や形にして伝えます。
それは、見えないままでは忘れられてしまうものだから。
一時的だとしても、そこにそれを残すのです。
消えていくものだとしても、むしろ消えていくからこそ、
その一瞬でも形にすることが大切なのかもしれません。
その儚さが見えるものの、生きることの創造性ではないでしょうか。
見えるものも、見えないものにも、同じように向き合って、
その有限と無限の間にある何かを、
そういうものを丁寧に掬い上げながら生きていきたいものです。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
みえるものとみえないもの、文字通り捉えにくいテーマでした。
僕なりにこの余白の創造性を考えてみましたが、いかがだったでしょうか?
皆さんがみえるものとみえないものについて考えるきっかけになれば嬉しいです。
さて、次回のテーマは”大人になること”です。
では、また来週の金曜日に。